ブログの読者の方から「仏教なんてものは無いのだよ
(サヤレーは仏教、仏教って拘っているみたいだけど)」というお言葉を頂きました。
まさにその通りでして、私が 40年前に、タイの森林寺院で修行を始めた時、タイの方々に「ブッディズム」と言っても、全然通じませんでした。
彼らは仏教の事を「バワナ―」とか「サーサナ」とか言っていますね。それは修習または、徳を高めるための修養という意味の様です。仏陀ご在世の時「これは仏教である」等とはおっしゃらなかったのですね。彼はご自分が教祖である、などと一瞬でも思わなかったことでしょう。
昔、仏教は「数法」と呼ばれていたそうです。
一は、一境性。
二は、因と縁。名法と色法。止と観。世間諦と出世間諦。
四は、四念処、四正勤、四界分別観、四聖諦。
五は、五根、五蘊、五取蘊、五蓋、五自在等。
六は、六識、六処。
七は、七覚支。
八は、八聖道。四禅八定は、12ではないので、こっちですか?(笑)
九は、仏陀の九徳。
12は、12処、12縁起。
10は、十波羅密。
18は、18界。
修習する科目は、37菩提分。
40は、止(=サマタ)業処の数・・・。
何でも数字で押さえて行く・・・さすが、<0>を発見したインド人ですね。
別に<仏教><テーラワーダ><大乗><密教><スピリチュアル><セラピー>等の呼び名に拘らなくてもいいですよ。
これを実践すれば、心が清らかになって、他人への恨みつらみが減って、己自身への信頼性が増し(自虐も他虐もなくなる)、業から来る苦、輪廻が齎す苦が止息する・・・それを保証し、実感できる教えなら、何でもいいのです。
私はアビダンマが好きで、その系統の著書を翻訳して皆様にご紹介していますが、私にとってこれは<趣味>であり<波羅密>であって、テーラワーダ人口を増やしたい訳ではありません。
ゴータマ仏陀は、ご自分の教えが広まるかどうか、全然気にしていなかったそうです・・・(『涅槃証悟の唯一の道』<No.3‐49>参照の事。)
理論を振り回すより、<先に苦が止息した者勝ち>です。
良い教えとは、<実践と証し>そのものであり、名称・名前は、後から人が被せた概念に過ぎないのです(勿論、逆も真なり~名は体を表す、という場合も有り得ますが)。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>