翻訳『禅修指南』(2-13)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
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Taṁ tasseva paññāyati:
「行者の慧のみが、それ(光明)を(見ることができる)。」
この種の光明は、唯一、行者の智慧によってのみ、見ることができ、その他の人々は、見ることができない。
例えば、我々は、肉眼でX線を、見ることができるであろうか?
否、見る事はできない。
(+しかし)我々は、X線を、肉眼で見ることができない事を理由に、X線は存在しない、と言えるであろうか?
否、我々はその様には、言えない。
というのも、我々は X線を写すことが出来るが故に。
Tena phuṭṭhokāse rūpagatampi passati.
「この色(光)が、到達して、接触する所の空間は、彼はすべて、見ることができる。」
光が外に向かって拡散する時、それが到達する場所において、人々は、各種の目標を、見ることができる。
彼は、何でもって、これらの目標を、見るのであるか?
Passanto ca cakkhuviññāṇena passati、udāhu manoviññāṇenāti vīmaṁsitabbanti vadanti:
「彼らは言う、(行者が)見る時、彼は、自分が一体、眼識でもって見ているのか、それとも、意識でもって、見ているのかを、観察しなければならない。」
観智によって生じた光によって、外部の諸々の目標を見たり、また分析したりすることができる。
止禅心の光明はもまた、外部の目標を識別するのに用いる事ができるが、しかし、それは、天眼通ほどには、正確ではない。
故に、(+修行者が)外部にある目標を見る時、それは一体、眼識でみているのか、それとも意識で見ているのか?(+が問われなければ ならない)。
(2-14につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版
中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>