翻訳~安般念入門―3(本雅難陀尊者シリーズ1)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
2.1 禅修の環境と姿勢
まず、《大念処經》において、以下の様に言う。
座禅・瞑想する者は、森林に住み、静かな場所を選び、また木の下に行くべきである、と。
というのも、禅の修行を始めたばかりの初心者にとって、音は一種の干渉になるからである。
彼らは、呼吸に注意を向ける時、その心は、周囲の音、声を聴きたくなるし、他人が何を言っているのかを聞きたくなる。そして、その為に、その後において、定力が減退する。
座禅・瞑想の時、まずは座って結跏趺坐(訳者注)し、目を閉じる;
もし、足が痛いのであれば、足の位置を交換して、快適にさせる事は可能である。
足の位置を交換する事は何等問題がない。
ただ、足の意位置を交換する時、呼吸を知っているという状態を維持するべきであり、身体の動作に注意を払ってはならない。
身体は、真っ直ぐに保ち、前かがみになったり、後ろにのけぞったりしない様にする。
後ろにのけぞると、呼吸への察知が明確でなくなり、出入息が察知できない時には、雑念が沸き起こり、それは益々増加していく。
身体が前かがみになると、疲れるだけでなく、同時に呼吸も荒くなって、かつ速くなるが、これでは座禅・瞑想はできなくなる。
身体が真っ直ぐであるべきである他、頭も真っ直ぐでなければならない。
もし、一たび、己の身体が歪んでいる事を発見したならば、心は、引き続き、呼吸を察知するという修習を継続すると同時に、ゆっくりと身体の姿勢を整えるべきである。
手をどの様にするかという問題は、手の置き場に、一定の決まりはない。
というのも、手の位置、手の様子は、あまり重要ではなく、それは随意にしてもよく、ただ快適であればよい。
最も重要なのは身体の姿勢である。
というのも、身体が歪んでいるならば、非常に疲労するからである。
座禅・瞑想の時は目を閉じる。
そして、心を、鼻と上唇の間の自然な呼吸の上に置く(皮膚の感覚に注意を払ってはならない)。
一個の呼吸の出入りが、比較的明確な部分において、呼吸を知るという事柄を保持する。
ある種の禅修行者は、雑念を嫌い、呼吸を明確に知ろうとするために、きつく呼吸を掴み、呼吸をコントロールする。
その結果、身体に緊張が生じ、身体は益々痛くなり、首もまた硬くなる。
その結果、ある種の禅修行者は、一たび目を閉じるや否や、頭は固く締まった感じがし、頭痛がする様になる。
故に、禅の修行を始めるにあたって、呼吸をコントロールするべきではない(+という事を心得るべきである)。
この問題は、修行を開始したばかりの時は、大きな問題にならないが、しかし、後になって、非常に大きな問題を引き起こす。
それは、修行者が一たび目を閉じるや否や、(+身体のあちらこちらが)きつく締まる感覚が生じる様になるが、そうなった後では、非常な辛苦が待ち受けている事になるのである。
訳者注:パオ森林寺院では、必ず結跏趺坐をする様に、とは指導していない。実際は、半跏趺坐でも王者座りでも、椅子に座ってもよく、上の文章は《大念処經》を尊重した上でのものであると思える。
(4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>