南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳『禅修指南』8-12

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

この事を《清浄道論》(第17章)では以下の様に言う:

Paramatthato avijjamānesu itthi 

purisādisu javati、vijjamānesupi 

khaandhādisu na javatīti avijjā 

ーー「それは究極的には存在しない女性、男性などに向かって行き、究極的に存在する所の、諸々の蘊などには向かって行かない。故に、それは無明である。」

更に分かりやすく無明(痴)(+とは何か)を理解する為に、ここでは、二種類の我見(atta diṭṭhi)を説明する。

すなわち:

(一)世間的な通称としての我(loka samaññā atta、世間が共通に認める我見)

(二)外道が有する我見(micchā diṭṭhi、atta diṭṭhi) 

 (一)世間的な通称としての我:

世人は、男性、女性、人、有情、天神、梵天、牛、動物等が存在している思っており、また、非有情を金、銀、田畑、家屋、樹木、土、森林、高山であると、見做している。

外観の(+修習が)できる禅修行者であって、もし、彼が、非有情の四界を識別するならば、彼は、ただ極微な微粒子を見るだけである。すなわち彼は、色聚(rūpa kalāpa)を見るのみである。

もし、次に、これらの色聚を識別するならば、彼はただ、火界によって生じる所の、「時節生食素八法色聚」と「時節生声九法色聚」を見るだけである。この様な知見は、正しい。

もし、それらを無常・苦・無我及び不浄であると知見するならば、この知見もまた、正しい。

しかし、それらを金、銀と見做したり、金、銀として受け入れたならば、その知見は間違っている。すなわち、これは、世間的に共通に認知される所の我見である。

(二)外道が有する我見はまた、二種類に、分類する事ができる。

すなわち、至上の我(parama atta diṭṭhi)及び、霊魂的我(jīva atta diṭṭhi)である。

至上の我とは、すなわち、創造主がいて、この世界、及び、一切の有情を創造したのだ、と認める考えである。

霊魂的我とは、すなわち、有情の中に一個の、創造された霊魂が存在する、という考えである。

痴と邪見:

痴とは、31界の中の有情と非有情は、常、楽、我及び浄であると、錯誤する事である;

邪見とは、31界の中の有情と非有情は、常、楽、我及び浄である、という見解を持つ事である。

(8-13につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijyubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>