翻訳『禅修指南』9-11(175/520)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《縁摂受智の体験》
(Paccaya Pariggaha Ñāṇa)
Vipassakena pana kammantarañca
vipākantarañca ekadesato jānitabbaṁ
(《清浄道論》)。
Ekadesato jānitabbaṁ anavasesato
jānituṁ na sakkā avisayattā.
Sabbena sabbaṁ ajānate paccayapariggaho
na paripurati(《大疏鈔》。
その意味は、これほど多く、複雑な業及び果報(異熟、vipāka)の関係性の中において、観を修習する者(vipassaka)は、ある種の業と、その果を、体験・証悟する必要がある、という事である。
一切の業、及びその果を遍知する事は、弟子(sāvaka)に属する範囲ではなく、仏陀の一切知智(sabbaññutāñāṇa)の範囲に、属するものである。
故に、禅修行者は、それらを遍知することはできない。
しかしながら、もし、人が、何等かの業、及びその果を体験・証悟していないのであれば、彼は、縁摂受智を成就することはできない。
これが、上に述べた註疏の文言の含意である。
業、及びその果の、体験・証悟をしていないならば、縁摂受智を成就する事は出来ない為、禅修行者はそれらを、ある種のレベルまで、明確にして、縁摂受智の体験・証悟に、対応するべきである。
あなた方が知っている様に、仏陀は、12種類の悪業の果報に遭った。すなわち、背中の激痛、金佳(Ciñca)の誣告、大象Nalagiriの攻撃、提婆達多(Devadatta)の落とした大石の破片による怪我などなどである。
これらの果報について、一つひとつの項には、皆、それが発生するべき業があった。
同様に、この一期の生命の内に、人は、各種の異なった可喜所縁(iṭṭhārammaṇa)及び不可喜所縁(aniṭṭhārammaṇa)に出会うが、それらはすなわち、彼の善果であり、悪果である。
これは自然な出来事である。
可喜所縁を体験する事は、善業の為であり
不可喜所縁を体験するのは、不善業の為である。
多くの異なった善業があり、それぞれ、異なった可喜所縁を引き寄せる。
同様に、多くの異なった悪業があり、それぞれ、異なった不可喜色所縁を引き寄せる。
弟子(sāvaka、また声聞とも)は、これら一切の業及びその果を遍知する事は出来ないが、ある程度は知る事が出来るのである。
(9-12につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>