般若の独り言~夢は枯野を
旅に病んで、夢は枯野を駆け巡る・・・は芭蕉の句ですが・・・
四、五日前に風邪を引きまして、38.5度という、人生まれに見る高熱を出して、ベッドに倒れ込んでおりました。
その間、変な夢ばかり見まして・・・夢うつつの中で、上記の、芭蕉の句を思い出しておりました。
ただ、時々目が覚めると、《如理作意、如理作意》と自分に言い聞かせ・・・
「もう70だもの、風邪をこじらせて死んでも、仕方ないかな」とか
「死ぬ前に趣相が見えるといいな」
などと考えておりました。
こんな時、以前は
「風邪をこじらせて死ぬなんて、みっともないから嫌だ」
と思っていましたし、
「死ぬ前に何が食べたいか」
などと、鉄板の質問の回答を考えていたものですが・・・(答えは「明太子ごはん」(笑))。
最近、『禅修指南』の中の文章で「死亡心の前の、有分心と有分心の間に出現する業、業相、趣相は・・・」などと翻訳したのが、(よい方へ)影響が出たのでしょうか?
氷枕で頭を冷やしながら思ったのですが、「死亡心の前の・・・業、業相、趣相」って、これ、日本で言う所の
<お迎え現象>ではないですか?
<お迎え現象>と言うと、大変にオドロオドロしく、唯脳論学者に一蹴されそうですが、こうやってアビダンマ心理学で説明すると、非常に科学的(いえ、まぁ、仏教は科学ではありませんので、別に科学的でなくてもよいのですが~笑)。
後は、ご自身で、<縁起>の修行(サマタとvipassanā の混合レベル)に取り組んで、人生の真相を、己自ら体験する事・・・体験すれば、一発回答、<迷惑氷消>です。
但し、唯脳論学者もそうですが、一見ご立派な学説をお持ちの学者の方々、仏教学者も含めて、ご自身では、決して修行しませんね。
頭で理論を組み立てているだけなら、楽ですからね。
アビダンマの修行と、修行を通して実体験を得るには、非常に高度な集中力が必要で、一生かけても足りないくらいです。生半可な決意では取り組めないものです。
それを潜在意識で感じ取るのか、世渡り上手な方々は、アビダンマには、近寄りませんね(笑)。
人生、何を目標に生きるかは、各々の自由ですが、究極の真理に出会わなければ、人間に生まれた甲斐がない、と私は思います。
翻訳は、体調が回復してから再開します。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>