<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
当該の処において、この様に言うのは、(+その場所において)強化される事によって息滅されるからである。
というのも、初禅の発生は、それらが強化されて息滅するのであって、それらの、単なる息滅、ではない。
近行定刹那において発生している事柄は、それらの息滅であり、それらの、強化された息滅、ではない。
故に、多くの転向(多くの意門心路過程)を擁する初禅近行定の時、身苦根はすでに、息滅されているとは言うものの、それは虻、蠅、蚊に接触(+するのが原因で)、または、凸凹の座蒲によって、不適が引き起されて、再度生起するかも知れないが、しかし、安止の中においては、これらは発生する事が無い。
または、身苦根は、すでに近行定の時に、息滅したかも知れないが、しかし、それは完全には息滅していないのである。
というのも、それらはいまだ対立法によって、完全に撃破されてはいないが故に。
安止の時、全身は、喜の拡散によって、楽が充満するが、身体に、楽が充満する人にとって、苦根は完全に息滅している(+と言える)。
というのも、その時、それはすでに対立法によって撃破されているが故に。
多くの転向を擁する、第二近行定の時、その前の心憂根は、すでに息滅されていると言うものの、それは再度生起することができる。
というのも、尋伺を縁とする、身の疲労と、心の混乱が有りさえすれば、それは生起するが故に;
しかしながら、尋伺がない時、それは発生することがない。
もし、それが発生するならば、それは尋、伺の発生があるという事でり、第二禅近行定の時に、尋も伺も、捨離されていない、という事である。
しかし、第二禅においては、この様な様子ではありえない。
というのも、その時には、すでにその因と縁を捨離しているが故に。
同様に、第三禅の近行定の中において、身体が、喜に相応する心を充満させて、勝色(=優れた色、優れた身的要素)を生じている人は、その前にすでに捨離した所の身楽根が、再度、生起する可能性がある。
しかし、第三禅においては、この様ではない。
というのも、第三禅では、身楽の縁である所の喜はすでに、完全に息滅しているが故に。
同様に、第四禅の近行定の中において、その前にすでに捨離した所の悦根(心の楽受)が、再度生起する可能性がある。
というのも、それは(+第三禅に)近く、また、それはいまだ、安止の強い捨によって、正確に鎮伏されてはいないが故に。
しかし、第四禅の中においては、この様ではない。
これが、一つひとつの状況において、なぜ、毎回「無余」という語彙を使うのかという、答えである。たとえば、「すなわち、ここにおいて、すでに生起した苦根は無余に滅尽した」の様に、である。
(5-129につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>