Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-128

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

当該の処において、この様に言うのは、(+その場所において)強化される事によって息滅されるからである。

というのも、初禅の発生は、それらが強化されて息滅するのであって、それらの、単なる息滅、ではない。

近行定刹那において発生している事柄は、それらの息滅であり、それらの、強化された息滅、ではない。

故に、多くの転向(多くの意門心路過程)を擁する初禅近行定の時、身苦根はすでに、息滅されているとは言うものの、それは虻、蠅、蚊に接触(+するのが原因で)、または、凸凹の座蒲によって、不適が引き起されて、再度生起するかも知れないが、しかし、安止の中においては、これらは発生する事が無い。

または、身苦根は、すでに近行定の時に、息滅したかも知れないが、しかし、それは完全には息滅していないのである。

というのも、それらはいまだ対立法によって、完全に撃破されてはいないが故に。

安止の時、全身は、喜の拡散によって、楽が充満するが、身体に、楽が充満する人にとって、苦根は完全に息滅している(+と言える)。

というのも、その時、それはすでに対立法によって撃破されているが故に。

多くの転向を擁する、第二近行定の時、その前の心憂根は、すでに息滅されていると言うものの、それは再度生起することができる。

というのも、尋伺を縁とする、身の疲労と、心の混乱が有りさえすれば、それは生起するが故に;

しかしながら、尋伺がない時、それは発生することがない。

もし、それが発生するならば、それは尋、伺の発生があるという事でり、第二禅近行定の時に、尋も伺も、捨離されていない、という事である。

しかし、第二禅においては、この様な様子ではありえない。

というのも、その時には、すでにその因と縁を捨離しているが故に。

同様に、第三禅の近行定の中において、身体が、喜に相応する心を充満させて、勝色(=優れた色、優れた身的要素)を生じている人は、その前にすでに捨離した所の身楽根が、再度、生起する可能性がある。

しかし、第三禅においては、この様ではない。

というのも、第三禅では、身楽の縁である所の喜はすでに、完全に息滅しているが故に。

同様に、第四禅の近行定の中において、その前にすでに捨離した所の悦根(心の楽受)が、再度生起する可能性がある。

というのも、それは(+第三禅に)近く、また、それはいまだ、安止の強い捨によって、正確に鎮伏されてはいないが故に。

しかし、第四禅の中においては、この様ではない。

これが、一つひとつの状況において、なぜ、毎回「無余」という語彙を使うのかという、答えである。たとえば、「すなわち、ここにおいて、すでに生起した苦根は無余に滅尽した」の様に、である。

(5-129につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>