先日、ブログの読者の方から、
[お前は、二言目には、ゴータマ仏陀、ゴータマ仏陀と言うが、ゴータマ仏陀など、実在しないのだ]
というご意見を、頂きました
(9月26日付ブログの下部にて公開の、マハーサマーディ様のコメントをご参照の事)。
私は、ゴータマ仏陀が実在しても、実在しなくても、その事自体、それほど大きな問題だ、とは思わない。
もし、実在しない、として、では、
[ゴータマ仏陀]とは何であるか?
何の象徴であるのか?
何を代表しているのか?
現代に残された、パーリ経典を読めば、2600年前、現在のネパールからガンジス河領域を遊行したゴータマ仏陀という実在の宗教的指導者が(いたとして)、または、当時のインドの民衆が《ゴータマ仏陀》という【超人の概念】を旗印として、その旗を空高く掲げて、バラモン教(現在のヒンズー教)の非合理性、圧政性を批判し、それから抜け出すための、革新的な価値観を提示した、という事に、気が付くでしょう。
現代に残るパーリ経典は、実在したゴータマ仏陀お一方の、智慧の結晶?
はたまた、当時の革新的インド民衆の、集合的叡智の結集?
そのどちらであっても、その教えの、輝かしい、宇宙的存在の真理に根差した、革新的価値に、変わりがない。
パーリ経典は言う:
[バラモンは、生まれによって決まるのではなく、行いによって決まる。]
2600年前のある日、出自を神聖化し、その事によって、社会的利益を独占するバラモン階級に苦しめられていた当時のインド民衆の、反撃の狼煙が上がったのです(注1)。
[無常・苦・無我・涅槃の主張は、真我・ブラフマン
(=創造神)を言う、バラモン階級への明確なアンチテーゼでありましょう]
四聖諦、縁起説、
八正道、サマタ・vipassanā
の提唱は、
ゴータマ仏陀が実在しても、しなくても、ネパール人、インド人が世界に誇る事の出来る、綺羅星の如くに輝く教えである、と思います。
19世紀から20世紀にかけて、素粒子を発見した物理学者の方々が、1000年後に、人々の伝承の記憶が薄れた結果、実在を否定されたとしても、彼らが発見した素粒子物理に関する理論を応用して、生活を便利に、豊かにすることができる。
あなたは、ファイヤーマンや、プランクの実在が証明できないのであれば、電子レンジや、携帯電話を使わない、と言うのでしょうか?
注1=20歳の頃から20年間、何度もインドに出かけ、インド人の親友がいる私の息子によると、現代でも、インドでは、バラモン階級は非常に傲岸だそうです。夜行列車にバラモンと乗り合わせると、「お前の出身階級は何だ?」と聞かれ、「日本人だから出身階級はない」と答えると、「フン」と鼻で笑って、その後はひたすら無視されるのだとか。佐々井秀嶺師のご苦労がしのばれます。