翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(109-4)(私家版)
(5)生滅智(udayabbayañāna-n下点。以下同様。未成熟の段階):諸々の行法の生滅を観照する智。「生」とは生起する時を指す。「滅」は変化、壊滅、消滅する時を指す。「縁に依り」生滅智を修習するとは、諸々の行法が、如何にして、それぞれの縁に依って、生起するのかを観照する事を言う(例えば、諸々の行法は如何にして、無明、愛、取と業を縁にして生起するか)及びそれらの諸々の縁が滅尽するが故に滅尽するのを観照する(例えば、無明、愛、取、行と業が滅すると行法も又同じく滅する事)。「刹那に依る」とは、生滅智を修習するのは、諸々の行法の刹那生滅を観照するのであるのを指す(例えば、心路過程、5門心路過程の生起、それの滅、眼識の生起、それの滅、領受の生起、それの滅、推度の生起、それの滅。これを「刹那生、刹那滅」と言う)。 この様に修する時、生滅智には、二つの段階がある。「未成熟」な生滅智の段階において、観照する力が増すと、10種「観の染」が禅修行者の中に生じる可能性がある。彼は己自身が極めて明るい光を発するのを見るか、又は以前に経験した事のない(極めて強い)喜、軽安、楽を体験する。彼の理解力と策励は増加し、智慧は成熟に向かう。念は安定し、捨は動揺のないものとなる。彼はこれらの体系に対して微細な欲を生起する、即ち、これらの体験に対して享受と執着を起こす(可能性がある)。。。。。 禅修行者が、上に述べた前9種の殊勝な体験をする時、もし、分別の能力に欠けるならば、己はすでに出世間道果に到達したのだと思ってしまう可能性がある。彼はその為に進歩を止めて、ただ、それらの体験を享受するだけになってしまい、己がそれに執着している事に気が付かない、かも知れない。。。。。。。。。 ひとたび、彼に分別する能力が備わったならば、これらの体験は、ただ成熟した観智の副産物に過ぎない事が分かる。。。 彼はそれらの無常、苦、無我を観照して、引き継き観禅の修習に励み、それらに執着しなくなる。。。。。。。 10種の観の染を非道であると分別し、観禅をば(進むべき)道であると判断する能力を「道非道智見清浄」と言う。校正完