Sayalay's Dhamma book

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パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)~176-1★

     <問答二>

問2-1:禅の修習をする修行者の中で、四禅八定を証悟し、あまつさえ観禅(ヴィパサー)まで修行している人がいます。しかし、彼らの日常の行為または徳行は決して良くありません。あまり戒律を守らないし、多くの人々は、この修行の法門に懐疑心が生じています。

上述の境地を証悟できた人は、他の、いまだ証悟していない修行者より更に身口意において、清浄を守らなければならないのではないでしょうか?

一人の、四禅八定を聖悟した人、または12縁起を修行している人は、己の多くの過去世を知っており、涅槃を体験した修行者などと共に、秘密を保持するべきで、軽々と他人に(+修行体験を)吐露するのはよくないのではありませんか?

答2-1: パーリ経典によると、ジャーナ、道、果を証悟するためには、人は先に、戒清浄を持さなければならない;持戒が清浄でない人は、ある種の定力を育成することはできるけれども、しかし、彼らはジャーナ、道、果を証悟する事はできない。

ここで、私はみなさんに一つのことをはっきりさせたいと思う:私は、これまで一度も禅の修行者が、ジャーナ、道、果を証悟したかどうかの印証をしたことは、ない。

私は、パーリ聖典の教法に基づいて、禅の修行者に初禅、第二禅などなどを指導するが、しかしながら、私は、彼らが小参(=面談)の時に私に報告する、その内容に合わせて指導する。これは決して私が彼らの修行の成果に印証を与えた、という事にはならない。

彼らの修行成果の報告は、正しいこともあれば、嘘のこともある。というのも、ある種の修行者は非常に正直で、ある種の修行者は正直ではないからである。

上述の成果を得た修行者が、身口意の方面で、いまだ成果を得ていない人より清浄であるかどうか、ということは非常に判断しにくい問題である。

というのも、ある種の人々は、それらの成果をいまだ得てはないけれども、しかし、彼らの徳行は、非常に清浄であることがあるからである。

龍大長老(Mahānāga Mahāthera)は、その顕著な例である:彼は法施阿羅漢(Dhammadinna arahant)の先生で、止観の修行をしてすでに60年以上経過していた。しかし、彼はいまだに凡夫(puthujjana)であった;彼は凡夫ではあったけれども、強く力のある止観の修行のおかげで、彼は60年の間、いかなる煩悩も生起することなく、かつ、非常に清浄な戒を持していた。ゆえに彼は、自分はすでに阿羅漢果を聖悟したのだ、と思っていた。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(問2-1、つづく)

訳者コメント:修行が進んでいる人が、全き善き人とは限らない。オウムがそうでした。<心が清浄な人はジャーナに入れるし、超能力を持つこともあるけれども、上記の能力があるからと言って、心が清浄であるとは限らない。>

微妙でややこしいのですが、一言でいえば、依法不依人、ですね。

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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>