最近、ある所(WEB)で、日本の禅宗の、某著名禅僧が「輪廻はない」と言っているのを耳にしました。
私はよく台湾に出かけ、台湾で出版された中国語の仏教書を手に入れて読みますが、中国・台湾の禅宗の僧侶が「輪廻はない」などと言っているのを聞いた事がない(中国・台湾では、道教の人も「輪廻はある」と言っている。)
くだんの禅僧が「輪廻はない」という根拠は、ご自分がそれを確認した事がない、または確認する方法を知らない、からなのではないでしょうか?
この世に輪廻がないならば、彼は何の為に僧侶になり、何の為に仏陀のダンマ、四聖諦を学び、八聖道、禅定の修行をしているのでしょうか?
禅宗と謳っていながら、禅定に入れない・・・、その名が泣きませんでしょうか?
私が台湾(台南)で、パオ僧院夏期集中瞑想会(パオ・スリランカ分院主宰)に参加した時、一日中第四禅定に入れる、<禅定第一>のおばぁさんがいて、彼女は、禅定に入るたびに(正確には、その禅定から出て後)、過去世をたくさん、たくさん観照して、それを一つ一つ、指導者(聖喜長老)に報告していました。
そして彼女は気が付いたのです。
「私は小学校にも行かせてもらえずに、幼い兄弟の面倒を見させられて、父母に対して大いに憤慨し、結婚してからは、文字を知らない為に、家に籠って夫に尽くすしか、生きていく道がない事に悲哀を感じていたが、これらは皆、己の結生識が好んで招いた人生であった」
「自分の人生は、自分の意識が作ったもの」
「今はもう誰も恨まない」
「これからは、笑顔で生きていける」と。
妻が第四禅定に入ってしまうと、一日中、座り続けて、動かなくなる。
念仏行者である夫は最初、激怒していたのだけれど、今では家事全般は夫の役目。料理も得意になりました(笑)。
ちなみに、二人の間に生まれた娘さんは、香光比丘尼集団の若き精鋭で、台湾にパオ・メソッドを伝えた功労者。
文字が読めない母親にパオ・セヤドーの『智慧の光』を読んで聞かせる事、母の瞑想体験を(スリランカにいる)聖喜長老に電話で報告する事が、彼女の日課になっている。
輪廻がないという考えは、断見。
有情は、輪廻し続けて、いつまでも世間に属し、涅槃(出世間)などない、というのは常見。
二者は、仏陀が否定した邪見。
己の見えないものを「見えないのだからないのだ」と独断的に断定する態度を、<科学的で、開明的で、先進的>なのだとする、科学至上主義に立っては、仏陀の中道は理解できない。
<緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>