子供の頃、日本の僧侶(禅宗系の仏教学者?)が書いた仏教書を読んでいますと、
『仏教は無神論である』
とありました。
私は「えっ?無神論は一見科学的で、よさそうに思えるけれど、それなら六道輪廻説はどうなるの?」
と考え込んでしまいました。
この疑問が解けたのは後年、《吉祥経》を読んでからです。
《吉祥経》では、祇園精舎におられるゴータマ仏陀の所へ、真夜中に、神様(天人)が一人、訪ねてくる所から物語が始まります。
神様は、ゴータマ仏陀に質問します。
「私は、12年間、人と神の幸せとは何か、を考え続けましたが、結論が出ません。仏陀ならどの様に答えますか?」
仏陀は答えます。
1、愚か者に近づくな。2、智慧ある者と付き合うべし。
3、敬うに値する人を敬い、4、適切な所に居を構え、
5、周囲を幸せにし 6、正しい志をもって・・・云々、
と、合計38種類の幸せを説きます。
説かれた内容もさることながら、仏教では、<神様が仏陀に><幸せな生き方>を<教わりに来る>という設定になっているという事は、神も、人も、みな完璧ではなく、それぞれ幸せになるために、自分の生まれた場所で、鋭意努力を続けなければならない、という風に、私はその様に《吉祥経》を解釈しました。
《吉祥経》を読めば、
<神(教会)に献金すれば幸せになれる>
という説が、いかに荒唐無稽かが、分かると思います。
仏教は無神論(文字通りの、この世、この宇宙に<神はいない説>)ではなくて、有神論(六道輪廻の内の一道は、天界)ですが、その内容は、【神が人より偉いという事はない】という
<人・神同等説>だと、私は理解しています。
ですから、仏陀は、神に願いを届けるという 《護摩焚き》《占い》などを禁止しています(大乗仏教、真言系ではゴータマ仏陀の批判した所の、神を敬う婆羅門教の真似をしている訳です)。
自分の生き方の方向性を決めるのに、哲学・宗教は手引きになりますが、学びを間違えると大変なことになります。
昔読んだ台湾の僧侶の著書に
『変な宗教に引っかかるくらいなら、何もしない方がよい』『普通のおじさん、おばさんでいる方がよほどまし』
とありました。
サヤレー(尼僧)になった今も、この言葉を時々思い出して、自戒しています(悟りも大事ですが、世間的常識も大事)。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>