先日のブログ [中道と中庸] で、政府の制定する認知症予防、改善に関わる政策は、手段であって、目的ではない、と書きました。
けれども、アンチ・エイジングは、今では目的と化して、世の老人たち、見た目若いと言われることを好み、他人から、老人っぽいと言われる事を、極端に恐れ、心は安穏ではなくなっている。
[目的と手段の取り違え] を言えば、お金が最たるものかもしれない。
お金は非常に有用で、なければ困るものである。
しかし、あまりに多くを溜め込んでも、使い道がなく、その存在意義は、失われる。
0 が数えきれないほどならんだ、有り余るお金で、国土の全部を買いこんだとしても、所詮、立って半畳、寝て一畳、どんなに食べても一合半、である・・・
若い頃、中・日語の通訳をしていた時、毎晩、招待宴の供応になる事が多かったが(たとえば、中国側が招待宴を催せば、日本側も返礼の宴会を催す)、豪勢な宴会料理など、三日続くと、もううんざり。
ラーメンかおにぎりでも食べて、早くホテルに帰って、寝たいなぁと思う。そんなものです。
そして、ゴータマ仏陀の教え、仏教。
これも手段であって、目的ではないです。
仏教は、人が幸せになるための多くの教えの中の一つであって、それは手段であって、決して目的ではない。
この事は、はっきり肝に銘じておいた方がよい。
無常・苦・無我(空、縁起)、涅槃を指し示すゴータマ仏陀の教えは、非常に高度で、独特で、それを学んだ者は、つい、ほかの宗教を、くだらない、下等なものとみなしてしまうことがままあるけれども(私にもあります)、仏教は、あくまで、手段であって、目的ではない、ということは、はっきりと知っておいた方がよい。
すべての教え、物・事は<筏>、暴流を渡る為の筏、手段にすぎず、「暴流を渡り終えたならば、筏は捨てて行け」と、当のゴータマ仏陀が、【筏の喩え】の中で、説いています。
(コメント欄は閉鎖しています)
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Paññādhika Sayalay般若精舎>