Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

FDC資料「37道品ハンドブック」5-15 ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

もし、はっきりと明確に苦諦を察知・覚知する事ができたならば、当然の事に、その他の三諦もまた、はっきりと察知することができる。

「四聖諦」を察知するとは、一般の凡夫は「随覚智」(anubodhi-ñāṇa)でもって認識するのであるが、聖者は、「通達智」(paṭivedha-ñāṇa)でもって認識するのである。「随覚智」は、闇夜に閃光を見る様なものであって、光を見ても、火そのものは見ていない。火を見ないで、ただ反射された閃光を見ているのであるが、しかし、火の存在は知ることができる。

直接、火を見たならば、それは「通達智」になる。

「信根の修習をし、精進根の修習をし、念根の修習をし、定根の修習をし、慧根の修習をする」(《相応部》大品、根相応、Sūkarakhatā。第8経)

上記の仏陀が述べたパーリの言葉、その意味は、「禅定」と「直観(=vipassana)」の為に、「五根」(心霊の機能)を修習し、開発しなければならない、という事である。

「五根」を開発しないのであれば、我々、一人の人間としての「蘊」は、ちょうど国家において、指導者や国王がいないかのようであり;森の中の原始の村に、政府が存在しない、というようなものである。

指導者または国王のいない国家は、法律もなく、その中においては、人々は規律を持たない。それは動物のようであって、弱肉強食となるのである。

同様に、一人の人間が「五根」を開発しないのであれば、その人の心は、迷いと惑いがあり、汚染を受けて混乱する。

それは悪霊にみちた人の様であり;「itipiso・・・(世尊は確かに・・・)」または「因縁」の偈頌などを、聞くことが出来ないのである。

「五根」を開発していない人は、縁起に関する話や、心霊の修習の開示を聞くと、彼らは即刻、それらに対して、批判を始めるのである。

彼らの中では、これまで「禅定」や「直観(=vipassana)」の修行に対して、全身全霊で取り組みたいというような心は、一度も生起する事はないのである。

反対に、一人の「五根」を開発した修行者は、正義を擁し、法によって統治する国王の存在する国家のように、ちょうど中規模の村または部落において、政府による行政単位があるようなものである。

この種の人は、各種の紛々とする理論によって動揺する事はなく、仏陀の開示した唯一の道の上を、確信を持って(+歩む事が出来る)。

ひとたび縁起の法または、内心を開発する修行に関する開示を聞くと、彼の心は、非常に清らかに明確になり、柔和になる。

彼は必ずや、「禅定」と「直観(=vipassana)」の修行に対して、全身全霊でもって、実践する。

こういう事であるから、この世界で生起する二種類の欲望とは、衆生の任務ではなく、それは「五根」の開発に依るものである。

もし「根」を開発しないのであれば、その中の一種類の欲望が生起する。

もし「根」を開発するならば、この種の欲望は消失し、もう一つ別の欲望が生起する。

「根」は開発されればされる程、この種の新しい欲望は強化される。

「五根」のすべてが打ち立てられた時、「道」と「果」への欲望もまた、直接的に出現する。

故に、衆生は「五根」を開発するべきであり、そうして初めて「自然信」、「精進」、「念」、「定」、「慧」を最高の境地にまで引き上げる事ができるのである。

(6-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>