<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
種と樹木の関係は、「作意」(manasikāra)が、
善悪の意識を生じせしめるのと、同じである;
泥土と樹木の関係は、六根が善悪の意識を生じせしめるのと、同じである;
雨水と樹木の関係は、所縁境が善悪の意識を生じせしめるのと、同じである。
今、我々は別の方法で、「因」の説明をする。
六種類の意識の中の、その一つひとつの意識には、それが生起するための、四個の因がある。
眼識の生起は、眼根、色塵ーーすなわち、所縁境、光明(āloka)と、作意という、この四つを必要としている。
この四つの内で、作意は、転向の心であり、心をして、所縁境に向かわせる過程である。
ālokaは、光である。
光がなければ、目は外に在る物を見ることができないし、認知の過程も生まれない。
cakkhu-vatthu は眼根を言い:
rūpa-arammaṇa は視覚の対象を言い;
字面からの意味は、色塵であり、すなわち、所縁境である。
耳識が生起するためには、耳根が必要であり;
声塵ーーすなわち、声(音)が所縁境であり;
虚空(ākāsa)と作意という、この四つが生起の因である。
ここにおいて、ākāsa とは虚空を指し、声(音)が空間を伝わって耳に届く事を言う。
それが存在する時にのみ、聞くという機能が生起する。
そうでなければ、耳は音を聞く事が出来ず、認知の過程も生まれない。
(18-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)
Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>