Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

《Vipassanāハンドブック》8-5(F)(25/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(一)遍行心所

1、触:

触とは所縁に接触するという意味である。

その事によって、好ましい、または好ましくない心境が生じる。

その為に、それは、心所を生じせしめる主要な要因となる。もし「触」がないのであれば、一切の所縁は、意味がなくなる(=作用、価値がなくなる)。

2、受:

味を味わう受覚。すべての衆生は、この受覚の内に溺れこむ。

3、想:

認知、認識の行為。すべての衆生が、もし充分に明晰で、己自身の方式、習慣、信念でもって物事を認知、認識するならば、彼らはそれによって更に聡明になる。

4、思:

心所が活動するのを決定する能力。世間的な言い方においては、我々は習慣的に、以下のように言う:

「ある人物が、ある作品を(+作る)指導をした。または、彼は、ある作品の作者である」

我々はまた、このようにも言う:

「これは誰それの作品だ」

または

「これは誰それの傑作だ」

道徳に関連する事柄もこのように言われる。

思は、また行為者(doer)とも言われる。

というのも、それは、心所の活動を決定するし、また、それは、身口意の三業を、発動するが故に。

生命における成功は、身口意によって創作された作品を、努力して発表する事によって得られるものである。

同じく、新しい生命もまた思(volition)の結果である。

(異なった時期の思は、時には希望といい、時には欲望といい、または身口意の業というが、それは過去世おいて造(ナ)されたものである。)

大地、水、山、樹木、草など等は、皆、四大によって生じるが、または「火」大によって生じる。

各種各様の衆生は、「思」から生まれるのだと言える。

すなわち、いわゆる業界(kamma-dhātu)である。衆生は、皆業によって生まれるが故に。

5、一境性:

心の専注を言い、また正定とも言う。

定(sampatti)の内において、心の専注は、更に明確になる。

6、命(jīvita):

精神的生命の事。

jīvitaは、心法を持続させる方面における(+役割は)非常に顕著である。

7、作意:

それの機能は、所縁を意識の中に引き入れる事である。

以上の七種が、遍行心所(sabba-cittaka)と言われる。

それらは、すべての識を構成するが故に。

(8-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>