Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『涅槃証悟の唯一の道』★パオ・セヤドー著(3-68)重要必読

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

しかし、ただこの様に了知するだけでは、未だ足りないのである。

彼は、何が色法をして、異なる場所において生起せしむるのかを、了知する必要がある。

彼は ”歩く”色法 という事柄の因を、了知しなければならない。

彼は、己自身の観智を通して、歩きたいと思う心(足を引導する心)が身表色(kāyaviññattirūpa)を生じせしめる事を、了知しなければならない。

そのためには、動作(+そのもの)を了知しなければならず、彼は、身体を移動させしめる所の心の生・滅を、了知しなければならない:

移動したいと思う心を観照するのは、心随観(cittānupassanā)に属する(+修習である)。心が何事かをなしたいと思う心所は、思(cetanā)と言い、それを観照するのは法随観(dhammānupassānā)に属する(+修習である)(訳者注)。

禅修行者が、それと同時に生起する心所の、すべてを観照することができないのであれば、移動したいという心を、知ることはできないのであって、故に、彼は、移動したいと思う心とは別に、受とその他の心所をも、同時に観照しなければならないのであるーーすなわち、受随観(vedanānupassanā)と、法随観(dhammānupassanā)である。

彼が歩くのを止めたとき、心は ”歩く” 色法が生じるのを停止して、”立つ” または ”座る” 色法が、それにとって代るのである。

禅修行者は、己自身の観智を通して、これらの事柄を了知しなければならない。

そうでないならば、姿勢に関連する所の、身体の生起の法と、壊滅の法を、了知することはできないのである。

この様にして初めて、禅修行者は、何事かの良い事または悪い事をなしたいと思った事が因となって(善思まは不善思を通して)、身体が移動し、その結果、観智を得るのだという類の観照を、修習することができるのである。

姿勢について、完全に了知したいのであれば、禅修行者はこの様に、己自身の観智でもって四念処を観照しなければならない:

それらは何によって構成されているのか?

それらの生起と、それらの生起する因、それらの壊滅とそれらの壊滅する因。

この様に(+修習)して初めて、禅修行者は完全に、姿勢についての了知を得ことができる;

この様にして初めて、姿勢に関しての、観の修習を始めることができる。

前に進む、戻る、前を向く、横を向くなどの各種の身体の動作への観照もまた、同様である。

これが、観の修習における、正知(sampajañña)の意味である。

入出息に関して、それはどの様にして生じるのであろうか?

それは、呼吸したいと思う心と、仏陀が生身と呼んだ所の、色身によって生じる。

四種類のすべての念処は、みな観照されなければならない。

それはすなわち、色法と名法の二者である。

この様に修習しないのであるならば、禅修行者は苦聖諦ーー五取蘊を証知する事はできないのである。

(訳者注)下線部分は、原文に誤植と思われる部分があった為、意訳した。

(3-69につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>