Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

本雅難陀禅師アメリカ法話第一集-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

我々の、この五蘊(色受想行識)は、ずっと我々を殺害しようとしている。

それは、我々の友でもなく、我々に属するものでもない。

お腹がすくと、それ(=五蘊)に何か食べさせなければならない。

多く食べ過ぎると気分が悪くなるか、下痢をする;

次には、入浴しなければならず、また次には、眠らねばならない。

毎日、頭の先から足裏まで、着衣の事から食事、住まい、薬・・・と、忙しい事この上ない。

それでも五蘊は、始終不満であって、我々が疲れ果てて死ぬまで、追い立てるのである。

この五蘊は、(+我々にとって)ただの見知らぬ客人であり、敵でさえもある。

全くそれを軽視したり、信頼してはならないのである。

彼は分ごと、秒ごとに老い、病気を得、死んでいき、止まることを知らない。

我々は、これほど長く仕事をして来た。

非常に長く、牛の如く生き、馬の如く生きてきた。

もう充分ではないか?

今は、時間を作って、禅の修行に打ち込もうではないか?

これ以上、命をあれら、何等の意義もない事柄の上に浪費するのは、やめようではないか?

我々の命は、あの夕日の様に、もうすぐ終わろうとしている。

なぜ、早く持戒し、禅の修行をし、功徳の修行をしようと、しないのか?

我々の今ある、すべての家族、親せき、友人は、皆、我々に属するものではない。

彼らは、彼らの過去と未来において、異なる父母と姉妹兄弟を、擁している。

この一世において、ただ因と縁が揃った関係で、今は、お互いに父母となり、姉妹兄弟となっているだけである。

我々が、一たび死亡したならば、彼らは、我々を忘れるし、我々もまた、彼らの事を忘れてしまう。

あなたは、それを信じないならば、以下の事を見てみればよい。

人が死ぬと、すぐに霊安室に置かれるし、遺体を長く自宅に置くことはなく、即刻、火葬するか埋葬する。

一切は、全く意義のないものである。

この身体、この家庭、ここにある一切合財は、みな、我々のものではない。

ひと度死んでしまえば、それは全く、己自身に属さない。

(15につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>