Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『禅修指南』13-10(461/520)

 

yamaneko.hatenablog.jp

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(二)随観滅法(vayadhammānupassī)

=壊滅を見る(ただ壊滅をのみ観ずる)

'Avijjānirodhā vedanānirodhoti・・・paccayanirodhaṭṭhena

・・・passati’.

’Avijjanirodhā rūpanirodhohit・・・anuppādanirodho hoti.’ 

已に、智でもって「諸果(たとえば、色)の生起は諸因(たとえば、無明)の故である」と知見した禅修行者は、次に、智でもって、未来において阿羅漢道、及び般涅槃死亡を証悟した後、「諸因滅尽(たとえば、阿羅漢道の故に、無明は二度と生起することがない、すなわち、無生の滅(anuppāda nirodha)であり、諸果の滅尽(たとえば、色の滅後、二度と生起しない、すなわち、無生の滅)である」を簡単に観ずることができる。

ここにおいて、禅修行者は、何が有生の滅(uppāda nirodha)で、何が無生の滅(anuppāda nirodha)であるのかを、知っておかねばならない。

有生の滅(uppāda nirodha):因行法と果行法は、生起の後、即刻壊滅する行法である。無常に属する持続的生・滅は、有生の滅である。諸因が持続的に支援しさえすれば、果は不断に生・滅するという形式で存在する。ここで言う滅とは、有生の滅である。

(因もまた果行法である事に注意を払う事。それは、それを引き起す所の因を有している。)

壊滅の後、因が未だ断じ除かれていない事が原因で、それは再び生起して、壊滅する。これがすなわち、有生の滅であり、いまだ生起する事を保持している滅であり、それは刹那滅(khaṇika nirodha)と呼ばれるものである。

無生の滅(anuppāda nirodha):ソータパナ道、サターガミ道とアナーガミ道は、皆、それぞれ、相関する煩悩を断じ除く(または軽減する)ことができる。最上道(agga magga)と呼ばれる阿羅漢道は、徹底的に残りの煩悩も断じ除く事ができる。(阿羅漢道に至る)諸々の聖道は、徹底的に相関する煩悩を断じ除いた後、これらの煩悩は完全に、二度と、名色流の中において生起することがない。

それらは、已に完全に滅尽して、二度と生起しない。この種の滅は、無生の滅と言う。

諸因(たとえば、無明)が徹底的に滅尽して、二度と生起しない時(すなわち、無生の滅)、諸果(たとえば、色)は、未来の般涅槃死亡の後、二度と再び、生起の縁が存在しないという事から、滅尽するが、この種の滅もまた、無生の滅と言う。それらが滅尽するのは:無因であるため、無果が生起するからである。

禅修行者は、観智をば、未来において、阿羅漢道を証悟する時と、般涅槃死亡をする時に向かわせ、無生の滅を観照する様にする。唯一、観智でもって「諸因(無生)が滅尽したので、諸果(無生)が滅尽した」を、明確に知見した後に初めて、以下の文にある様な修習に取り組む。

色蘊の観照

1、無明が滅尽するが故に、(業生)色が滅尽する。

2、愛が滅尽するが故に、(業生)色が滅尽する。

3、取が滅尽するが故に、(業生)色が滅尽する。

4、行が滅尽するが故に、(業生)色が滅尽する。

5、業が滅尽するが故に、(業生)色が滅尽する。

(これは無生の滅であり、未来において色が滅尽した後、二度と生起しない。)

(業生色の有生の滅も観ずる。)

6、心が滅尽するが故に、心生色が滅尽する。

(心生色の有生と無生の滅の二者を観ずる。)

7、時節が滅尽するが故に、時節生色が滅尽する。

(時節生色の有生と無生の滅の二者を観ずる。)

8、食が滅尽するが故に、食生色が滅尽する。

(食生色の有生と無生の滅の二者を観ずる。)

この観法では、禅修行者は二種類の滅尽を明確に知見しなければならない。すなわち、無生の滅と有生の滅である。《無碍解道》では、有生の滅は変易相(vipariṇāma lakkaṇaṁ)と呼ばれるが、これは行法の刹那滅である。一つひとつの刹那を五蘊に纏めた後(縁起第五法の説明の如く)、禅修行者はすべての、六所縁グループの善と不善速行心路過程を観照しなければならない。交代に内観と外観を修習する。ここにおいて眼識受蘊に対する観法を例に挙げて説明する。

眼識受蘊識の観照

1、無明が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。

2、愛が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。

3、取が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。

4、行が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。

5、業が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。

6、眼依処色が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。

7、色所縁が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。

8、眼触(=7)が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。

9、光(āloka)が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。

10、作意(=五門転向=11)が滅尽するが故に、眼識受蘊が滅尽する。

(無生滅法)

(眼識受蘊の滅尽の状態[有生滅法])

同様の方法によって、出来る限り、最も遠い過去世から最後の一個の未来世まで観照を進める。

(三)随観集滅法(samudayavayadhammānupasī)

=集滅を見る(udaya vayadassana)

Samudayadhammānupassī vā kāyasmiṁ、vayadhammānupassī

vā  kāyasmiṁ・・・karoti.

上に述べたパーリ経典と註釈の指示によると、生滅随観智詳細法を修習する禅修行者は、観智でもって「因あ生起するが故に、果が生起する;因が滅尽するが故に、果が滅尽する」を識別した後、彼は必ず、因果を不断に連貫させてながら、観照しなければならない。

この観法に対して、《根本50經篇註》では、以下の様に言う:

Sappaccayanāmarūpavasena tilakkhaṇaṁ ・・・vicarati.

この註釈の指示によると、禅修行者は必ず、順序良く繰り返し因果の二者の三相を観照しなければならない。

こうしたことから、ここにおいて、因果の無常相を観照する例を挙げた。

それらの苦相と無我相の観法もまた、同様である事を理解しなければならない。

生・滅を見る:色蘊

1、無明が生起するが故に、業生色が生起する;

無明が滅尽するが故に、業生色が滅尽する;

無明(生・滅)無常、業生色(生・滅)無常。

2、愛が生起するが故に、業生色が生起する;

愛が滅尽するが故に、業生色が滅尽する;

愛(生・滅)無常、業生色(生・滅)無常。

3、取が生起するが故に、業生色が生起する;

取が滅尽するが故に、業生色が滅尽する;

取(生・滅)無常、業生色(生・滅)無常。

4、行が生起するが故に、業生色が生起する;

行が滅尽するが故に、業生色が滅尽する;

行(生・滅)無常、業生色(生・滅)無常。

5、業が生起するが故に、業生色が生起する;

業が滅尽するが故に、業生色が滅尽する;

業(=思、生・滅)無常、業生色(生・滅)無常。

6、心が生起するが故に、心生色が生起する;

心が滅尽するが故に、心生色が滅尽する;

心(生・滅)無常、心生色(生・滅)無常。

7、時節が生起するが故に、時節生色が生起する;

時節が滅尽するが故に、時節色生が滅尽する;

時節(生・滅)無常、時節生色(生・滅)無常。

8、食が生起するが故に、食生色が生起する;

食が滅尽するが故に、食生色が滅尽する;

食(生・滅)無常、食生色(生・滅)無常。

 眼識受蘊を観ずる

1、無明が生起するが故に、(眼識)受が生起する;

無明が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;

無明(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。

2、愛が生起するが故に、(眼識)受が生起する;

愛が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;

愛(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。

3、取が生起するが故に、(眼識)受が生起する;

取が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;

取(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。

4、行が生起するが故に、(眼識)受が生起する;

行が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;

行(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。

5、業が生起するが故に、(眼識)受が生起する;

業が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;

業(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。

6、眼所依処が生起するが故に、(眼識)受が生起する;

眼所依処が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;

眼所依処(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。

7、色所縁が生起するが故に、(眼識)受が生起する;

色所縁が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;

色所縁(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。

8、眼触が生起するが故に、(眼識)受が生起する;

眼触が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;

眼触(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。

9、光が生起するが故に、(眼識)受が生起する;

光が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;

光(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。

10、作意(=五門転向=11)が生起するが故に、(眼識)受が生起する;

作意が滅尽するが故に、(眼識)受が滅尽する;

作意(生・滅)無常、(眼識)受(生・滅)無常。

 説明

縁起第五法に、已に熟練した禅修行者は、上に述べた説明に従って、この段階での修習を実践することができる。

生滅随観智の詳細法に関して、一つひとつの心識刹那の五蘊観照しなければならない。

ここにおいて、禅修行者は、一つ前の前世の因と今生の果の因果関係を識別した後、この法を修習することができる;。

彼はまた、二番目の前世の因と、一番目の前世の果の因果関係を識別した後、この法を修習することができる;

また、今世の因と来世の果の因果関係を識別した後、この法を修習する事も出来る。

禅修行者は、更に遠い過去の諸々の世を識別する事ができるし、また、未来世の諸々の世の因果関係を識別することもできる。その後にこの法の修習をする。

希望するならば、禅修行者は、無明などを二グループに分けて観の修習をすることができる。すなわち、無明、愛と取を煩悩輪転に、行と業を業輪転に分けるのである。

たとえば、諸因(+によって)一番目の前世に生まれたならば、禅修行者は、先に、一番目の前世の有分心透明界(意門)を識別し、次に、有分心の間に生起する所の諸因を観照し、それらの生・滅(=無常)を知見する。

更に遠い過去、及び未来世の観法もまた同様である事を理解する事。

縁起の段階で説明した様に、無明、愛と取は多く、以下の意門心路過程に出現する:

意門転向=12

速行心=20

有因彼所縁=34

無因彼所縁=12

喜は相応しても、しなくてもよい。彼所縁もまた、生起してもよく、生起しなくてもよい。

もし、彼所縁が生起するならば、愛、取の多くは、貪見グループ速行である。観智でもって、これらの心路過程名法の生滅無常性を観照して、いまここの刹那に至った後、順序良く繰り返しそれらの三相を観照する。

行と業は、多く以下の心路過程に出現する:

意門転向=12

速行=34

有因彼所縁=34

無因彼所縁=12

もし、この意門心路過程の速行が喜俱智相応大善である時、喜と智の二者は共に相応し、合計34の名法になる。

もし、捨俱智相応であれば、ただ智相応で喜が無く、合計33の名法となる。

彼所縁は生起することもあれば、しないこともある。

もし、彼所縁が生起するならば、状況に基づいて、生起するのは、有因または無因彼所縁である。

一つひとつの心識刹那の行業名法の生・滅を観じて、いまここの刹那に至ならば、順序良く繰り返しそれらの三相を観ずる。

行と業有

業力は、観禅の目標ではない。観の修習の時、善行グループの三相を観照するのを主とする。

故に、禅修行者は、観禅の目標である行と業有について、理解が必要である。ここにおいて、布施の説明をして例に取る。

1、善業(布施)を造(ナ)す前に生起した所の前思(pubbe cetanā)は行である;

善業を造(ナ)した時(布施した時)に生起した立思(muñca cetanā)は業有である。

2、業を造(ナ)した時に生起した七個の速行の中において、第一から第六の速行相応の思は行であり、第七速行相応の思は業有である。

3、業を造(ナ)した時に生起した所の速行心識刹那の中において、思は業有、その他の相応法は行である。

上に述べた定義に基づいて、もし人が、観照することができるのであれば、上に述べた所の、已に生じた、またはまさに生じ様としている意門善速行心路過程の中の、一つひとつの心識刹那のすべての名法を、いまここの刹那に至るまで(+観照するならば)すなわち、行と業有の二者は已に観照されたのだと言える。

一切の観照

 一つひとつの心識刹那を五蘊に纏める。たとえば、結生五蘊、有分五蘊、死亡五蘊、意門転向五蘊、眼識五蘊などである。その後に、上に述べた方法で、内と外を観ずる。

禅修行者は(+以下の様に観ずる):

1、前世と今世の因果関係を連貫させた後、それらに対して、観の修習をする。

2、諸々の過去世の間の因果関係を連貫させた後、それらに対して、観の修習をする。

3、今世と来世の因果関係を連関貫させた後、それらに対して、観の修習をする。

4、諸々の未来世の間の因果関係を連貫させた後、それらに対して、観の修習をする。

(13-11につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>