Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

65歳の仏教修行報告書(2)> ~魂~についての考察

子供の時の、最初の記憶ってなんでしょうね。

確か誰か有名な文豪さんは「赤ちゃんの自分が、盥で体を洗ってもらっている記憶」なんて言っています。

私は、一番最初の記憶、という訳ではないですが、子供の時に「たましい」という言葉を聞いて「ドキッ」とした記憶があります。

たましい・たましい・たましい・・・そうだ、それ、私、持ってるよ。でも、どこにあるのか、今は分からない。大人になったら分かるのかな?それとも大人になったら、たましいというものを、見失しなってしまうのかな?それだったら大人になりたくないな、という感じだったでしょうか。

仏陀は「魂はない」と言いましたが、私見では、それはバラモン教との関係で、インド人が魂につていあれこれ抽象的な議論をするのを嫌ったためだ、と私は思います。

実は、魂について議論するもなにも、「魂の定義」自体が非常に難しいのですけれどね(苦笑)。

目玉が目玉を見る事ができないように、認識主体は認識主体を認識できない。

ですから、魂を認識主体だと定義した場合、魂とは何か?を一生議論しても、結論は出ません。インドの聖者がよく言うように、それはそれ、it is it 、魂は、魂自身を語る事が出来ないのですね。

仏教的な立場では「魂」はない、でもOKです。しかし、認識主体は認識主体を認識できない、という厳然とした事実は、誰も反論ができません。これを実地に体験として確かめる事。それが瞑想です。

追補:正確には、仏陀は「魂はあるかないか」について、返事をしなかった。無言を通した、という事になっています。身体と心は縁起によって生滅していて、神が管理しているのではない、とは言ったようです。ここの所が混乱していて、仏陀は「魂はない」と言ったという人もいます。勿論、2500年前のインド言葉を、現代人が解釈するので、なかなか統一見解が出ない、という難点があります。