是誰庵仏教談義~28>無有愛
仏教用語に<無有愛>という言葉があります。
以前それは、世の中が面白くないので、死にたい死にたいと思っている、自殺願望者の心理の事だと聞いたのですが、最近違う解釈を聞きました。
それは、来世が信じられない人が、老いてもう後がないといって、欲望を肥大化させ、自暴自棄的に生きるのを<無有愛>というのだ、との事(仏教で<愛>という場合、渇愛、即ち<執着>をさします)。
そんな新しい解釈を教えて頂いた矢先、本日のインターネットで、多発する老人の万引き、しらふで切れて暴れる凶暴性、死ぬまでセックス(で男女が狂う)という最近の老人の風潮が問題になっていました。
私は子供の時「私はなぜ、どうせ死ぬのに生まれてきたのか?」という命題が気になって仕方ない時期がありました。そして、もし輪廻がなかったとしたらどのように生きればいいのか?もし輪廻があったら、どのように生きるのがいいのか?それをずっと考えてきました。
50歳の頃、瞑想でサマーディに入り深層心理に触れ、輪廻はあると確信してからのち、安心立命しました(輪廻があるなら、いつまでも生き続けられるからいい、というのではなくて、有情は輪廻する、それは恐ろしい事である、ただ、その輪廻の輪から離れる方法を、2500年前にゴータマ仏陀が教えてくれている、という安心)。
来世があるなら、還暦過ぎたら、そろそろ来世に行く準備をしよう。
心静かに穏やかに(楽しく陽気に、でもいいけど)、物も人も財産も、整理がつくものから整理していく。来世には、今生でかき集めた知識等なんの役にも立たないけれど、性格、心はいやおうなく続く。
輪廻の苦海を生きるのも、輪廻の暴流(ボル)を漕ぎ渡るのも、心よりほか大事なものはない。
ゴータマ仏陀の教えです。