「日常用語」と「法(ダンマ)の言語」~
縁起の教えを宣揚するにあたって、一つの不思議な事実がある:
仏陀が苦労して教えを弘める時、同時に二種類の言語を使う必
要があった。
一つは「日常用語」で、これをもって、常見に惑わされている
人を指導し、彼らに一般的な道徳を解説した。というのも、
常見を持つ人は、常に「私」「私のもの」と言う感覚を持って
いて、かつこの種の執着は、すでに非常に根深くこれらの人々
の心の中に住みついているからである。
目にすこしだけ塵がかかっている人(利根の人)に対して、
勝義諦(最高の真理)を理解し、長らく執着し、かつ愛して
いた常見を放棄させるのに仏陀が用いたのは、
「法(ダンマ)の言語」であった。
縁起は勝義諦に属するため、法の言語で説明しなければなら
ないが、それは、道徳とは完全に、相対するものである。
それを日常の用語で説明することは不可能なのだ。
日常用語でもって縁起の説明をするのは不可能だ:
もし法の用語を用いて説明したなら、聴衆は理解できない。
縁起の一切を日常用語で説明したならば、まったく理解でき
ないという事はないが、完全に誤解してしまう。これが、
縁起を教える場合の、根本的な困難であり、仏陀が覚醒した
ばかりの時に、人々に教えを説く事を躊躇した理由である。
指導しても理解することができない。漁師の子であった
サーティ比丘の例のように(この事については後で説明する)。
現代になっても、我々は教えられもし、教えもし、議論もした
けれども、依然として理解できない(人が多い)。指導を
受け入れても、実践できず、または修行すればするほど
正しい軌道から外れていく。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)