(仏教で)道徳の説明をするとき、必ず「人」がいるとか、
「衆生」がいるとか、「私」とか、「如来」とか、言わな
い訳にはいかない。
人に幸せの話をするときには、死後における幸福の果報の
話もしなければならない。
しかしながら、勝義諦の話をする時は、「衆生」とか「人」
とか「如来」とかは存在せず、ただ、相互に依存して生起
する所の、刹那刹那の相続の流転があるだけであり、
それぞれの一支を「縁起の法」と言い、それらが線のように
連なるか、または鎖のようにつながることを<縁起>と呼ぶ
のだという事を説明する。
一つ一つの刹那、すなわち、今、ここにおいては、「私」
という存在は無く、故に誰が生まれ、誰が死ぬのかという
問題は、生じない。
(仏教は)、古い業の報いを誰が受け取るのかという<常
見>でもないし、死後、断滅して存在しなくなるという
<断見>でもない。
というのも、(訳者補:刹那の縁起を理解した人にとっては)
その理解した瞬間から、断滅すべき人はおらず、今・ここに
おいて、勝義諦中道の縁起の現象が存在するのみ、という
事を受け入れる事ができるから。
それは、八正道または道徳上の中道に応用する事ができ、
お互いに矛盾しないものである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)
(訳者の感想:19世紀末に素粒子物理学が発展してから、
刹那生滅の原理、物質は電気的エネルギー体であって、我々
凡夫が肉眼で見ると、固い固形の物質にみえているだけ、
という事が、科学的に明らかになってきました。2500年
それを説明するのに相当ご苦労されたようです。
説明が随分楽になったといっていましたね)。