強烈な無貪の(+心の)傾向の故に、菩薩はそれと対立する、
利己心の危険を見通し、その為、布施の修習に努力する;
強烈な(+心における)持戒への傾倒のために、彼は無徳
の危険を見通し、その為、持戒の修習に努力する。
その他の波羅蜜についても、みなこのように実践する。
ここにおいて、特に、以下の点に注意して頂きたい。
出離と対立する(+心の)傾向とは、欲楽と在家の生活
であり、智慧と対立するのは愚痴(=愚か)と疑いであり、
精進と対立するのは懈怠であり、忍辱と対立するのは無忍と
瞋であり、真実と対立するのは妄語であり、決意と対立する
のは優柔不断(善を行う事に迷う)であり、慈と対立する
のは瞋と恨であり、捨と対立するのは、世事における
栄枯盛衰と変転に屈服する事である。
強烈な(+心の)捨の傾向により、菩薩はそれに対立する所
の法(すなわち、世事の栄枯盛衰と変転に屈服する事)の
危険を見通し、ゆえに捨波羅蜜を修習する事に努力する。
このように、布施、持戒等の10波羅蜜への(+心の)傾向、
傾倒もまた、波羅蜜の根本的条件である。
上に述べた波羅蜜の根本的条件に鑑み、私は皆さんに、
菩薩道を修する事を発願する者が、授記を得られる菩薩に
なるために必要な、十分な波羅蜜の蓄積と、毎日の生活の中
において、育成しなければならない資質について、
話したいと思う。それらは:
一、極めて深い欲;
二、法の中に住する事;
三、如理作意;
四、貪・瞋・痴を断ずる事;
五、涅槃の証悟に傾倒する事。
(+ )(= )訳者。(つづく)
訳者コメント:もう30年も前の事ですが、ある時、テーラワーダ
出身の長老の法話を聞く機会がありました。
彼は「仏陀になろうなんて、欲が深すぎ!!釈尊は仏陀になるな、
阿羅漢になれ、と教えている。我々は、仏陀になりたいなぞという
欲は、出さなくてよいのだ」と話されました。
私は違和感を感じましたが、当時は、彼に反論できるほどの理論を
持ち合わせていませんでした。
その後、自分なりによく考えて、仏陀になりたい、阿羅漢になりたい、
クリスチャンになりたい、右翼になりたい、左翼になりたい、
イヤ、何にもなりたくない・・・とか、我々は何になろうが、
何にならなかろうが、自分の人生は、自分で選択、決断すればよい
のだと、ハタと、膝を打ったことがあります(結果はすべて自己
責任)。仏陀になるのは大変だけれど、成りたい人はチャレンジ
してみればいい。まずは妥当な発想でしょう。(パオ・セヤドー
の法話から、テーラワーダは、菩薩道や成仏を否定していて、
ゆえに小乗である、という伝承は、一種の誤解であること
が分かります)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)