次に、精進波羅蜜について、以下のように省察する:
「十分な精進力が無い時、自分自身を生死輪廻から救い出す事
さえもできない。十分な精進力がないまま、菩薩道を修すると
発心した人は、どのようにして、衆生を救うつもりなのか?」と。
「無量の貪、瞋などの煩悩は、酒に酔った象のように制御しに
くく、これらの煩悩によって造られた業力は、死刑執行人が刀を
高く持ち上げて、我々をまさに処刑しようとしているのと同じだ。
四悪道の門は、我々の悪業の前に、永遠に開いている。
悪友は常に、自分の周りをまとわりつき、我々に悪をなすよう唆し、
そして、我々を四悪道に送り込む。
愚かな凡夫の本性は、これらの悪友の、よくない唆しに、軽々と
服従してしまい易い。故に、我々は、これら詭弁好きの悪友から
遠く離れているべきである。というのも、これら詭弁好きの人は、
常に間違った、かつ、理知的でない論点を持ち出し、
こういうからである:
『もし、生死からの解脱が本当にあるのならば、我々は、何らの
努力をせずとも、自然に、自動的にそれを獲得できるはずだ』と。
ただ精進力を通してしか、これらの間違った言論から遠ざかる事は
できないし、自分の能力に依って、仏果を証悟することができる
ならば、他に何が困難な事柄があろうか?」。
精進波羅蜜について、経典では、獅子王の比喩を挙げている。
獅子王の本性は、兎を捕まえる時も、象を捕まえる時も、最大の努力
をする。彼は、兎が小さい動物だから、小さな努力でよいとか、
象は体積が大きいので、兎より努力をする、という事はない。
この二つの事柄に対して、彼は、同等の努力をする。
この獅子王の態度と同じく、菩薩が精進波羅蜜を修習する時、
彼は、小事ゆえに、小さな努力をし、大事ゆえに、
大きな努力をする、という事がない。
任務の大小にかかわらず、彼は時々刻々常に、同等の、
最高の努力をする。
(+ )(= )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)