(9)すでに加行究極果を得て境地を作意し、また心身は出離することができ、各種の意身に分化すことができ、心に何等の煩悩もないのに、しかし「究極定相」ができない(+人がいる)。
究極定相とは何か?
己自身が己自身に対して、完璧に主人になることができない。己を自由に操縦することができない。すなわち、入定したいと思えば入定し、出定したいと思えば出定することができ、何等の障礙もなく、動と定が無礙であり、如如にして自在である事。
(10)世間定とは?
「世間定」とは、文学、芸術、武術などを含む訓練によって到達した定の境地の事。(+心は)自由自在で、心の欲するところを手に入れ、心の欲するように実践することができる。
しかし、それは「出世間定」(般若、見地等)ではない。
それ(=世間定)は、永遠に、煩悩を根本的になくすことはできず、輪廻の中で苦しみを受け続ける(51心所法の内、2種類の随眠煩悩が取り除かれていないのを、またの名を世間定という)。
(11)人に接する時の態度、物に接する時の態度が、自由自在であり、心境は空っぽであるとは言っても、それは空ではない。ただ、第六番目の識の作意によって、暫定的に(+心が)清浄なだけである。
もし、逆境に遇ったり、空前の圧力に遇ったりした時、諸々の心心所の随眠煩悩、根本煩悩、それらすべてが「生起」する。この状態では、輪廻のくびきを離れることはできない。
(12)大乗の菩薩道を修習する時、第八識の不動地菩薩に到達していないのであれば、境に会っては、後退する。
第八不動地に到達して初めて、第一義空の真実義に、本当に証入したのだと言える。
一切法において、無生とは何か?
無滅とは何か?
無作とは何か?
これらが明瞭に分かって初めて、後退しないでいられるのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)
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<陳居士「修心与神通」中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>