南伝仏教のDhamma book

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パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-207

問6-9:

北伝の仏教では、仏陀が般涅槃した後であっても、依然として神通力で以て、無数の応化身を変現して、引き続き衆生を救度しているのだ、といいます。禅師はどのように考えますか?

答6-9:

南伝では、以下のような経がある:

有る時、一人の婆羅門が仏陀に会いに来て、仏陀に色々質問した。

仏陀は一つ一つ答え、婆羅門は非常に満足したが、最後に以下のようなことを訊ねた。

「あなたの弟子は全員涅槃を悟るのでしょうか?」

仏陀は答える:「有る者はできて、有る者はできない」

婆羅門:「涅槃はずっと存在しているし、涅槃へ向かう道を示す仏陀も存在するのに、なぜ、有る人は涅槃を証悟することができて、有る人は涅槃を証悟することができないのでしょうか?」

仏陀は反問した:

「あなたは王舎城へ行く道を知っていますか?」

婆羅門:「知っています」

仏陀:「もし二人の人がいるとして、あなたに王舎城へ行く道を教えて欲しいというとしよう。一人はあなたの言うとおりに進み、もう一人はあなたの言うとおりに進まず、間違った道を進んだ。どうしてこのようなことが起こるのだろうか?」

婆羅門:「おお、ゴータマ。私はただ王舎城へ行く道を教えることしかできません。彼が(+道を誤って)行きつかないのを、私がなにかできるでしょうか?」

仏陀:「同じ理由で、諸々の仏は、ただ涅槃への道を示すだけであり、衆生は自分自身で精進し、修行しなければならない。ある人は涅槃を証悟することができ、有る人はできない。それを私がどうにかすることはできないのです」

このように諸々の仏は、涅槃への道を指し示すが、彼らは誰をも救度することはしない。

《アビダンマ論》では、仏陀はかつて、一人も涅槃へ到達するよう救度したことはなく、彼はただ涅槃への道を指し示しただけなのだと、書かれている。

《アビダンマ論》では、仏陀の神通は、色界唯作神通心(rūpāvacara-kiriya-abhiññā-citta)であると言われている。これは名法の一種である。

仏陀が般涅槃した時、名法はすべて息滅したが、それは神通心も含まれる。こうしたことから、

仏陀の神通力は般涅槃の時に息滅し、二度と神通力が存在することはない。

問6-10:

涅槃の中には、常住真心があって、涅槃の常、楽、浄を享受しているということはありますか?涅槃に名色がないとしたら、私はそれがどのような状態であるか、想像することができません。

答6-10:

涅槃は、不可思議(=思議、考える事のできない事)なもの、想像を超えたものである。常住真心があれば、心とは名法であるから、涅槃に意義はなくなる。涅槃は、苦諦と集諦の息滅であり、苦諦とは五蘊であって、それは四種類の名蘊を含む。涅槃とは一切の名色の息滅であり、故に、もし、涅槃にいまだ常住真心があるのであれば、涅槃には意義がなくなる。

問6-11:

北伝の経典では、五つの不可思議(=思議、考える事のできない事)があります。仏陀の神通力は、その中の一つです。仏陀の神通力が不可思議なものであれば、どうして《アビダンマ論》で説明することができるのでしょうか?

答6-11:

いわゆる「神通力不可思議」は、ただ仏陀の在世中の期間において限ら、仏陀の般涅槃の後は含まれない。仏陀の神通力が不可思議なだけでなく、その他の人々の神通力も不可思議である。

問6-12:

仏陀は般涅槃した後、二度と再び出現して衆生を度することはない。しかし、彼は過去において菩薩道を行ずるとき、多くの衆生と縁を結びました。これらの衆生の得度(=度することを得る)の因縁が熟した時であっても、仏陀は出てきて彼らを救うことはしないのでしょうか?

答6-12:

菩薩と縁のある衆生は、通常、菩薩に付き従っている。彼らの波羅蜜は、往々にして仏陀在世の時に熟する。仏陀の時代、40倍無量数の衆生が四聖諦を悟り、聖果を証した。彼らの人数は多く、数えきれないほどである。我々の菩薩が波羅蜜を実践する時、(+その対象は)皆、彼とは有縁の衆生である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)

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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>