是誰庵のひとやすみ~明鏡止水
先ほど、パオ・セヤドーの「顕正法蔵」(No.5-82)を翻訳していましたら、「明鏡止水」という言葉が出てきました。
私、68歳にして、ようやく、この言葉の本当の意味を知りました(イヤ、遅い!遅すぎる!けど、知らないよりは、よかったゾ!)。
我々の心臓の中から、<心~ciita>が湧いてきます。心は、認識する対象を取りますが、前世の死ぬその瞬間の心に浮かんでいたイメージを対象に取る心を、有分心と言います。
そして、己自身の有分心は、己の心眼で見ることが出来て、それは明るく光っていて、似相を映し出す事が出来るから明鏡のようだ、と「顕正法蔵」は言うのです。
はぁ~~。
このこと、すなわち、有分心は明鏡の如くであり、それは、自分自身が禅定(ジャーナ)に入る事によって、直接知覚する事ができる。
という上記の心の本質を知って、「私の心は明鏡止水の如く」と発言されている政治家、宗教家の方、禅宗のお坊さん、どれくらいいるでしょうかねぇ。(『私の心は明鏡止水。国民の為に尽くします』と言っていた政治家、いたなぁ)
只管打坐しかり。
明鏡止水しかり。
本当の意味を知る頃は、すっかり老婆になってしまったゾ!(まっ、いいけど)