是誰庵のひとやすみ~Neyyaについて
随分前ですが、パオ・セヤドーの著書を翻訳していて
<Neyya>という言葉に出会いました。
日本語・漢語に訳すと被引導者、所引導者となり、その意味内容は、現代では、ダンマを聞いただけで(一瞬にして)悟る人はすでにいなく、皆、ダンマをよくよく学ばねば悟れない人ばかりである、すなわち「導かれなければ悟れない人」という意味を持つ。
それがなぜか最近、この<Neyya>という言葉をよく耳にしたり、Web上で見たりするようになりました。
出所は某宗教団体(最近話題の)で、そのココロは「私という教祖についてこなければ悟れませんよ」。
私たちは、仏陀のいない時代に生きて、Neyyaである事は確かかもしれません。けれども、特定の誰かについて行かねば悟れない、という事はないのです。
ダンマの本を読んで(英語が出来れば、ご自分でITで探してみて下さい。ダンマは自分一人で、いくらでも学ぶ事ができます)、37菩提分を正しく理解して、順序良く日々実践するならば、いつの日か、悟る日はやってきます。
仏法に「私しか教える事のできない秘法」などないのですから、Neyyaであってもなくても、己のレベルに合わせて、日々研鑽するのみ、であります。
<私の指導者は、この人しかいない>と思い込んだ時、多くの宗教的悲劇が起きます。
「あなたはNeyyaだから、私から離れるな」と言われたら、眉に唾して「そう言っているあなたは何ですか?」と問い返してみて下さい(清浄な比丘なら決して「私は聖者・アリヤだ」とか「神通、天眼が出来る」とか「すでに初禅に入っている」とかは言わない)。
Neyyaであっても、Neyyaでなくても、学び、実践する事はただ一つ Sacittapariyodapanaṃ<浄其自意>なのです。
追補:LedĪ Sayādawの「37道品ハンドブック」(p14)によると、Neyyaは、未了の行者とも言い、ハラミツのよい人は、7日間の修行で悟る事もある、との事。
これより、Neyyaであっても、ハラミツとカルマは人それぞれ、己のレベルに合わせて精進すればよい、事が分かる。