南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》3-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

無間縁のエネルギー(anantarasatti)

これら残留したエネルギーは、如何にして、我々の蘊流の中に、付き従うのか?

今、あなた方は《発趣論》を聞いていて、(+内容について)多少の目鼻は、ついていると思われる。

心は、無間縁の力によって、不断に生・滅、生・滅しているが、その前の心が生起する時、エネルギーもまた同時に生起している。

これらの心自体もエネルギーを擁している。

この点は少し難しいかも知れない。

みなさんが理解してくれるのを期待している。

前の心が滅すると、後ろの心が生起するが、後ろの心が生起する時、前の心のエネルギーもまた同時に生起する。

我々は、このエネルギーを己自身で点検することができる。

どのように点検するのか?

我々は、言葉を話す能力、行動する能力、商売をする能力等を擁しているが、我々は、これらの能力に実体があるとは思わないし、重量があるとも思わない。

能力は、どれほど多くても、重すぎるというような事はなく、実体はないながら、しかし、我々は、能力の存在は感じ取っているのである。

衆生の蘊流と菩薩の蘊流の中において、心は不断に、絶え間なく、相続が生起しており、ひとつづつの心のエネルギーもまた、相互に感染しあい、相互に影響し合っているのである。

みなさんは、この心のエネルギーは、消失することはない事を、理解しなければならない。

Santā の意味:

衆生の身・心(蘊流)において、ある時には善であり、ある時には悪である所の思心所ーー業は、自然の法則によって、因と縁に従って生・滅する時、徹底的に空(=空っぽ)、無の状態にまで消失するという事はなく、己自身の存在の基礎として、鋭利で着実なエネルギーの真髄(業縁)は、蘊流の中に潜在するのである。

(3-11につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>