★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》4-5
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
輪廻への理解
十善を保つ事のできない人は、非常に重い貪・瞋・慢(=慢心)、嫉妬、吝嗇等の煩悩を、有しているのが、その原因である。
この種の人間は、死後、悪趣に行って、苦を受ける。
しかし、もし、あなたが一般の人に:
「あなたの、このような行為は、地獄に落ちますよ」と教えてあげても、彼は意に介さないであろう。
もし、あなたが彼に:
「あなたのこのような行為は、警察が来て捉まえますよ。」というと、彼は緊張の余り、居ても立ってもいられなくなるであろう。
私はある現象を見る:
一般の人々は、短期でしか物事をみない事を。
己自身の、生々世々の生命の輪廻に関して、ただ、短い一生の間の名誉と利益、幸福しか追求せず、己の愛する事柄、己の愛に関してならば、一切を惜しまず、代償を払うことができる。
来世について言えば、他人はともかく、己自身でさえも、己の来世に、何らかの準備をしようとは思わない。
来世はまだまだ先の事だ、などと思ってはならない。
それはただの一刹那でやってくる。
皆さんは、己への点検を、怠ってはならない。
私は上述の状況のようではなく、経論の法義に関しては深く掌握しているが、その他に、己の未来に対して、準備を怠らないでいる。
私の目標は出離であり、名利ではない。
法師と居士の方々は、私の修行生活が退屈で、私に親しみたくないと思うならばそれも結構、また、(+目障り故)私に、森の中に退け、というのならば、私はそのようにしたいと思う。
我々は人趣に生まれた。
天人は天趣にいる。
天趣に生まれた天人は、非常に幸福である。業力は、彼の為になんらの余計な事をせずともよい;
同様に、業力は完全に全くもって、地獄の落ちた衆生を救い出す事はできない;
畜生道の衆生に関しては、業は彼らに対して無力であり、彼は彼の果報を受け尽くすまで、彼の「有」(bhava)において、生存しなければならない。
餓鬼道の衆生は、必ず山林の中にいて、火で燃やされたり、飢餓、渇きの苦痛を受けているが、我々は彼らを、救う事はできない。
人間の近くに住むことのできる鬼(=幽霊)たちの状況は比較的好い。というのも、彼らは人間が普く布施したものを、受け取る事が出来るし、人間の造(ナ)した功徳回向も、受け取ることができるし、またこのことによって、鬼道を解脱することもできるが故に。
人に生まれることは、千戴一遇のチャンスであり、我々は今、それを得ている。
しかし、この人身のうちにおいて、以前の業は、どのような力があって、(+果報の)熟す事の可否を決定することができるであろうか?
我々は更に一歩進んで、己を点検しなければならない。
仏陀の教法は、非常に精緻で正確なのである。
(4-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>