南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-31

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

身念住における禅修が、理性と成績(=成果)の二者と智慧とが、完全に結合する段階に入った時、禅者は、実に不思議な事に、昼夜止まる事無く、完全に、身体の観察に浸透する。

智慧は、ある種の速度と巧みさをもって、身体の中を移動し、非常に豊かで創造力のある分別、思惟、技巧を展開する。

それはまるで、ほぼ休むことなく身体内部の各々の部位ごと、各々の層ごとに転動し、隠れた場所や隙間を発見しては、真相の発掘に余念がない。

この段階における修行において、智慧の運用が慣性となり、それは、自動的に顕現するまでになる。

それは、それほどまでに迅速で鋭利である為、最も微細な煩悩までも、追いつき追随する事ができる上、最も大きな煩悩であっても、殲滅させることができる。

この段階における智慧は、極めて大胆で、チャレンジ精神に富み、それはまるで山の鉄砲水が、峡谷に流れ込むようなもので、煩悩が表現する所の執着と貪染を押し流すが、誰もそれを、押しとどめる事はできない。

敵手が非常なる曲者であるため、智慧と淫欲の戦いは、全面的な戦闘状態となる。

このような局面においては、勇猛であり、かつ妥協のない策略だけが、勝利を得ることができるのであるが、故に、適切な行動とは唯一、一つしか存在しないーー全力を尽くして戦う事ーー禅の修行者は、この事を本能的に、知っているのである。

智慧が身体を掌握した後、それは、煩悩の技量に捕獲されない為に、不断に観察の技巧を、改善し続ける。

智慧は、煩悩より先に一歩進んでみたり、不断に新しい出口を探し求めたりして、その手段を不断に調整するものである:

ある時は、狙う重点を変えて見たり、ある時は、技巧の微細な変更であったりする。

修行がますます熟練する時、己自身の、または他人のを含む、すべての身体への執着が、消失する段階に来る。

実際には、いまだ離れがたい執着は残されているのではあるが、それは徹底的に滅し去ったわけではなく、ただ、隠れていて、姿を現さないのである。

この点を、しっかりと見極める必要がある。

それは、人をして、消滅したと思わせておいて、実際には、不浄観の力によって覆い隠されているために、観察され得ないだけなのである

故に、自己満足してはならないーー念住、智慧と精進ーーでもって挑戦を受けようではないか。

心の力でもって、身体の全部をあなた自身の前に並べておいて、それを子細に専注する:

これはあなたの身体であるが、一体何が発生するであろうか?

智慧は今では、非常に迅速で果断な状態になっている。

それはあなたの面前において、即刻、身体をば分解し、粉砕する。毎回、あなたが身体を己の前に置くとき、それが己自身の身体であても、他人の身体であっても構わないがーー智慧は即刻それを分解し破壊する。

このような時、この種の行動は、すでに一つの慣性・習慣となっているのである。

(1-32につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>