『阿羅漢向・阿羅漢果』1-31
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
身念住における禅修が、理性と成績(=成果)の二者と智慧とが、完全に結合する段階に入った時、禅者は、実に不思議な事に、昼夜止まる事無く、完全に、身体の観察に浸透する。
智慧は、ある種の速度と巧みさをもって、身体の中を移動し、非常に豊かで創造力のある分別、思惟、技巧を展開する。
それはまるで、ほぼ休むことなく身体内部の各々の部位ごと、各々の層ごとに転動し、隠れた場所や隙間を発見しては、真相の発掘に余念がない。
この段階における修行において、智慧の運用が慣性となり、それは、自動的に顕現するまでになる。
それは、それほどまでに迅速で鋭利である為、最も微細な煩悩までも、追いつき追随する事ができる上、最も大きな煩悩であっても、殲滅させることができる。
この段階における智慧は、極めて大胆で、チャレンジ精神に富み、それはまるで山の鉄砲水が、峡谷に流れ込むようなもので、煩悩が表現する所の執着と貪染を押し流すが、誰もそれを、押しとどめる事はできない。
敵手が非常なる曲者であるため、智慧と淫欲の戦いは、全面的な戦闘状態となる。
このような局面においては、勇猛であり、かつ妥協のない策略だけが、勝利を得ることができるのであるが、故に、適切な行動とは唯一、一つしか存在しないーー全力を尽くして戦う事ーー禅の修行者は、この事を本能的に、知っているのである。
智慧が身体を掌握した後、それは、煩悩の技量に捕獲されない為に、不断に観察の技巧を、改善し続ける。
智慧は、煩悩より先に一歩進んでみたり、不断に新しい出口を探し求めたりして、その手段を不断に調整するものである:
ある時は、狙う重点を変えて見たり、ある時は、技巧の微細な変更であったりする。
修行がますます熟練する時、己自身の、または他人のを含む、すべての身体への執着が、消失する段階に来る。
実際には、いまだ離れがたい執着は残されているのではあるが、それは徹底的に滅し去ったわけではなく、ただ、隠れていて、姿を現さないのである。
この点を、しっかりと見極める必要がある。
それは、人をして、消滅したと思わせておいて、実際には、不浄観の力によって覆い隠されているために、観察され得ないだけなのである
故に、自己満足してはならないーー念住、智慧と精進ーーでもって挑戦を受けようではないか。
心の力でもって、身体の全部をあなた自身の前に並べておいて、それを子細に専注する:
これはあなたの身体であるが、一体何が発生するであろうか?
智慧は今では、非常に迅速で果断な状態になっている。
それはあなたの面前において、即刻、身体をば分解し、粉砕する。毎回、あなたが身体を己の前に置くとき、それが己自身の身体であても、他人の身体であっても構わないがーー智慧は即刻それを分解し破壊する。
このような時、この種の行動は、すでに一つの慣性・習慣となっているのである。
(1-32につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>