<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
三、無我遍知
無我遍知(anatta-pariññā)は、心法と名法に対して、完璧で、必要な知識を具備している事と同じ様に、無我に関しても、完璧で、必要な知識を有している事を言う。
諸法が無我である事を観察する智慧によって、すべての色法と心法が、勝義諦で言う所の、真実不変な実体はない、という(+事が知れる)。
世俗諦で言えば、「人」もまた、真実不変の実体は、ない。
心法と色法によって組成された人と動物は、実質不変の「我(私)」というものはない;
また、真実不変なる「私」もまた確認されることがない;
人は、輪廻がいつまでも止まらないならば、彼の神識は、永遠に不死である。
もし人が、この種の智慧を得て、かつ頂点に到達したならば、この時、この種の智慧は、無我遍知と呼ばれる。
この三種の遍知(無常・苦・無我)は、また度遍知と言う。
度遍知(tīrāṇa-pariññā、審察遍知とも言う)とは、「思惟智」と「生滅随観智」によって、一切の、名法と色法の無常・苦・無我の三つを、審査し、察知し、また弁別できる事を言う。
(20-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)
Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>