パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6‐23(170/430)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
11.3 色法の本質
この28種類の色法は、単独で存在することはできず、ただ、色聚として、組み合わさった形態でのみ出現することができ。
すなわち、もっとも小さい色法の組み合わせによっており、それは又「密集」(ghana)とも言う。
同一の一粒の色聚の中の諸々の色は:
同時に生起し(ekuppāda)、同時に滅し(ekanirodha)、同一の処に依存する(ekanissaya)。
同一の一粒の色聚の中における四大は相互に依存しあっており、所造色(upādā rūpa)は、同一の一粒の色聚の中の四大に依存して存在している。
四大と所造色はみな、他の一粒の色聚の中の四大に依存することはない。
究極色を如実に知見し、四大がどの様に相互に依存しているのか、及び所造色がどの様に四大に依存するのかを知る為に、先に、色聚が見えていなければならない。
禅修行者に色聚が見えたならば、その後、彼は、色聚の中の究極法には8個、または9個、または10個、または更に多くある事が見えなければならない。
その後、彼は智でもって、一つひとつの種類の色法の自性相とその本質を識別しなければならない。
この様にして初めて、彼は究極法を理解する事ができる。
この、色聚を識別する方法は、「界分別」と言う。
《中部・根本50經篇・大牧牛者經》の中において、仏陀は以下の様に言う:
「比丘たちよ。11支を具足する比丘は、この教えの中において成長し、上昇し、または成就する事ができない。」
この11支の一に関して、仏陀は以下の様に言う:
「比丘たちよ。色を知らない比丘とはどの様なものであるか?」
仏陀は続けて解説して言う:
「比丘たちよ。どの様な色であっても、すべのて色は、四大及び四大に依存して造られる色である如実に知らない比丘の事である。
比丘たちよ。この様な比丘は色を知らない(+比丘である)と言う」。
当該の經の註解では以下の様に言う:
何をもって「色を知らない」というのか?
色法に関して、彼は二つの事を知らない、すなわち、それらの「数」と「起因」を知らないのである。それらの数を知らないとはすなわち、パーリ聖典に列記される25色:眼、耳、鼻、舌、色(=色彩)、声(=音)、香、味、触、女根、男根、命根、身表、語表、空界、水界、色軽快性、色柔軟性、色適業性、色集積、色相続、色老性、色無常性と食素の事である。
牛の群れにおいて、一体牛が何頭いるのかを知らない牧牛者の様に、どれほどの色法があるのを知らない比丘は、色法、非色法(名)、名色法を識別することができないし、またそれらの起因を識別できないし、それらの三相を観照して、禅修の目的に到達する事もできない。
牛の群れにおいて、牛を増やす事が出来ない牧牛者の様に、仏法の中において、当該の比丘は、戒、定、観、道、果または涅槃を増長(=成長、上昇)させることができない。
牛の群れにおいて、五種類の牛の産品を楽しむことができない牧牛者の様に、当該の比丘は五法、すなわち、阿羅漢の戒、定、慧、解脱と解脱智見を得て、楽しむことができない。
色法の起因を知らないというのは、「これらの色法には一つの起因がある、二個の起因がある、三個の起因がある、四個の起因がある」ということを知らない事を言う。
牛の色または形状を知らない牧牛者の様に、色法の起因を知らない比丘は、色法、非色法(名)を識別する能力を持たない・・・五法、すなわち、阿羅漢の戒、定、慧、解脱と解脱智見を得て、楽しむことができない。
道、果と涅槃を証悟したいと思い禅修行者は、仏陀のこの注意事項に対して、特に注意を払うべきである。
色法の数と、それらの起因を知りたいのであれば、あなたは諸々の色聚を個別に、識別し、分別しなければならない、というのも、色聚の分別ができないのであれば、どの種類の色法が、業生であるか、心生であるか、時節生であるか、食生であるかを区別できないからである。この時、彼は究極法を見ることを得たとは言えないのである。
(6‐24につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>