その後、ある日の事、仏陀は、シャーリプトラ尊者の甥に《長爪経》(Dīghanakha Sutta)を教えていた時、一種の法を説明した:受(vadanā)である。
シャーリプトラ尊者は、その時、ゴータマ仏陀の後ろに立って、彼の為に扇子を揺らしながら、仏陀の説法を聞いていた。
説法が終わると、シャーリプトラ尊者は、阿羅漢果を証悟し、彼の甥は、入流果を証悟したていた。(M.2.206 )。
彼は、ただ、一法をのみ観照したたけで、阿羅漢を証悟したのであるが、それは、彼が、それ以前に、すでに、すべての五蘊を識別してあったから、なのである。
再度申し上げるが:仏陀は、もし、比庫が、三種類の遍知でもって、一切の名色法及びその因を了知することができないのであれば、彼は、涅槃を証悟する事は出来ない、という。
故に、禅修行者は、ただただ、受(例えば、苦受)をのみ識別しようとし、究極名色法を徹底的に識別しようとしないならば、それは充分ではないのである。
ここで言う「充分ではない」とは、涅槃を証悟する事はできない、という意味である。