パオ・セヤドーの著書 『親知実見』 の、中国語原文p257~276 【如何にして名法を識別するか】
(ブログ<#37-1~37-14>)
を翻訳し終えて、思わず
[う~~ん、降参!]
と、つぶやいてしまいました。
名法(名色法)を識別できる様になった禅修行者は、名色限定智という智慧を持つわけですが、この智慧が指し示すものは、すなわち、宇宙全体に存在する生き物の名色法、無生物の色法を、分解し、分析してみれば、世の中には、宇宙全体を含め、男性とか女性とか、ましてや人間、犬、猫、天人なんぞという、その様なものはない。
それ(男性、女性、人間が存在する等)は、我々、無明に生きる凡夫の気の迷い、間違った概念だ、という訳です(そして、間違った概念に基づいて生きて、毎日、ああでもない、こうでもない、と苦悩する、凡夫の愚かさよ←私の事)。
修行がなかなか進まず、安般念でウロウロしている私は、パオ・セヤドーの <観智の第一段階(=名色限定智)> の説明文の翻訳を通して、ただただ、ゴータマ仏陀の、深遠なる智慧、仏智に、もろ手を上げて降参するよりほかに、すべは無し。
追記:
こういう、悟りの話になりますと、[凡夫を一刀両断に否定]する人がいますが、やはり、悟りは一歩一歩、積み重ねていくもので、凡夫は凡夫なりに、己の内面と対話しつつ、謙虚に生きるのが一番であって、無理して <悟った振り> をしても意味がない・・・<悟った振り>は、異常に熱心な仏教徒に、時々見られる病的心理現象で、百害あって一利なし。
凡夫だからと居直って、どんな不善もOK、という放逸に落ちず、かといって、悟った振りもせず(本当に悟っている人は、案外淡々として、悟り臭などはないのですが)・・・
凡夫を自認する者は、中庸に生きつつ、中道(=四聖諦への悟り)を目指す、ということでしょうか。自戒をこめて。