般若の独り言~Na saldhā(信仰してはならない)
いつも通っている温泉施設のロビーでの、ある日の会話。
私「歯が痛くて。なるべく早く、病院に行かなくては」
老年の男性
「あなた、僧侶でしょ?」
「(僧侶なのに)南無南無が足りないのよ」
と手を合わせながら、おっしゃる。
私「南無南無って、拝むって事ですか?」
「何に対して、拝むのですか?」
男性「ようするに、あなた、信仰心が足りないの」
私「ゴータマ仏陀は<信仰するな>って言ってますが?」
男性「えっ????」
「いやいや、信仰心、信仰心が一番です」
「自分は宗教嫌いだけどね」
私「仏陀の教えは、一に観察、二に観察、三、四がなくて、五に観察で、信仰心は推奨しないのですが
(・・・ここでサマタ・vipassanā の話をしても相手が困るだけだし・・・議論はここで終了)」
この人は、どうやら、宗教一般はお嫌いな様ですが、信仰心があれば、病気は治る、と思っているらしい・・・
う~~ん、立ち位置がよく分かりません。
ゴータマ仏陀は
「信仰してはならない(Na saldhā)」と言っています。
仏陀は、迷信、言い伝え、聖者の教えと言われているものなどに対して、検証を加えずに信じてしまう事は、非常に問題が多い、と言っている様に思います。
【信仰するな】も含め、ゴータマ仏陀の教えが正しいかどうか、検証し、結果を得るためには、無常・苦・無我、涅槃を説く、高レベルの修行者や高僧等に会って、教えを乞い、最低、2、3年、その膝下で修行してみなければ、分かりませんから、やはり
《真理に出会うための学び》
というのは、なかなかに、覚悟がいるものです。
追記:自分の病気の治癒に、己への慈心があると、完治は無理でも、多少症状が和らぐ事はあると思います。
私は、定に入って、己自身の無明が見えた時、ノイローゼが治ったり、風邪が治ったりした経験が、あります。
風邪は、定に入って、己自身の腹立ち(病への苛立ち)が、絵の様に(または映画の様に、イメージとして)見えた時、治りました。
ただし、完治したのではなく、定から出ると、39度あった熱が、一気に37度にまで下がっていて、身・心が、非常に楽になった、というものです。
39度の発熱は、実は、自分による、自分への、怒りや苛立ちで、体温が2度分、上昇していたのだと思われます。
病気は、信仰心で治すのではなく、<病を引き起こす己自身の無明>に気が付き、それを観察できれば、治ります(定に入り、一瞬にして、完治するものもあれば、寛解するだけ、のものもあります)。
ゴータマ仏陀は、病気をした弟子には、七覚支を実践する様に励ましています。七覚支の内一支は、<定>です。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/
Paññādhika Sayalay 般若精舎>