Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(84ー3)(私家版)

(1)身念処:安般念、四威儀、正念正知、32身分、四界分別観、不浄観(墓地観)……を含む。安般念の修行は、身念処である。四威儀は、行、住、坐、臥である。四威儀はどの様にして観ずるのか?行く時(歩く時)、四界が歩くのを観ずるのである。もし、あなたが、一個の「我(私)」が歩いていると思うのであるならば、それは身念処ではない。歩こうとする心が生起する時、非常に多くの心生色聚が生じる。この「心生色聚」の中の「風」が拡張する時、あなたは、足を上げたり下げたりする事ができる。。。           このことは、究極法から見れば、名色が歩いているのである。風は、縁もゆかりもなく生起する訳はなく、行こうとする心が生起する事によって、多くの心生色聚が生じ、その中の色法「風」が足を上げたり下げたりするのを可能にするのである。。   同様に、立つ、座る、横になるのも、全て心から始まるのである。。。         これらの色法の中において、ある時は「風」が比較的明瞭であり、ある時は「地」が比較的明瞭であり、ある時は、「火」が比較的明瞭である。故に、真実は、名色が歩いており、その後に(名色が)「風」によって拡散されていくのである。。。。              この様に観察する事ができた時初めて、身念処の観察ができた、と言うのである。。   もし、「我(私)」が歩いているのを観ずるのであるならば、それは有身見であり、20年修行しても決して、進歩しないのである。。。。。。。             (2)受念処:苦受、楽受、不苦不楽受を含む。目は欲楽相応の色塵を見ると、楽受を生じる。喜ばしくない色塵を見ると、苦受が生じる。好ましくもなく、不快でもない色塵を見ると不苦不楽受を生じる。この一切を知っていなければならない。仏陀は言う:「苦受が生起した時、苦受が正規したと知る。楽受が消滅した時、楽受が消滅したと知る。」             「苦受が生じた時、苦受が生起した事を知る」この覚知が、「正念」心所である。慧心所は、即ち、一切の有為法は、生起すれび、必ず滅し去る事、無常である事を、徹底的に知ることである。禅の修行で、観智の段階に来ると、「念」と「慧」の2個の心所は、非常に、非常に重要になって来る。私が、アジア又はアメリカ等多くの国を訪問して発見したのは、皆、非常に正念を強調するけれども、慧を軽視している事である。楽受が生起した時、楽受が生起したと知る。苦受が生起した時、苦受が生起したと知る。しかし、ここで観ずる事、察知する事、それの無常を作為する事を忘れている。修行の道筋において、「念」と「慧」は、同じくらい重要である。ただ「念」でもって知っているだけでは足りず、「慧」でもって、行法を無常であると徹底的に知らなければならないし、又、快速に生滅することから派生する所の、圧迫の苦も体験しなければならない。あらゆる生起するものは、最後には断滅する。これも又一種の苦である。故に、無常の圧迫を受けるのは、苦である。この生滅の過程を主宰している主宰者はいない。故に無我である。「無常、苦、無我」は、観智における智慧である。