翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(90ー6/7)(私家版)
■受縁愛(受の縁によりて愛が生起する)愛は、一切の貪念、情欲、欲望、願望、好み……などなどを含む。愛の特徴は、目標に執着する事である。作用は目標への粘着。まるで肉が鍋に貼り付いた様である。現象は放棄出来ない、捨てられない事。近因は、束縛に至る法に楽味を見出す事。束縛の法とは即ち、5蘊、6塵を言う。例えば、我々の目は色塵を貪愛し、目が色塵を楽しむ事に楽味があると思う。結果、束縛されてしまうのである。ある一つの比喩が、貪愛の現象が、放棄したくない事であるのを説明出来る。アジアでは、猿を欲しいと思い、それを、捕まえ様と思った猿使い、椰子の実に穴を開けて、その中に手を入れる時は必ず手を丸めなければならないない様にする。そして、猿使いは、椰子の実の中に良い香りのする食べ物やを入れ、それを木の枝に吊るす。香りが猿の鼻根を衝撃する時、彼に楽愛が生じる。猿は、無常を観ずる事が出来ない為、楽受にによって、直接貪が生起する。こうして猿は、香りの来源を探し始める。(6処は煩悩の入る門である事が分かる)。猿は椰子を見つけた後、手を丸めて、椰子の実の中に突っ込み食べ物を掴む。しかし、穴は非常に小さいので、食べ物を目一杯掴んだ手を抜く事ができない。どれ程藻掻いても役に立たない。唯一の方法は、手の中の食べ物を放棄する事であるが、しかし、貪愛の作用によって、食べ物に粘着する為、放棄出来ないと言現象が起きる。近因は、束縛に至る法に楽味を見出す事。言い換えれば、猿は食べ物に楽味があると考えている、と言う事である。故に、食べ物は猿が束縛を受けるに至る要素であると、言える。この例から、以下の事が分かる。貪愛は、我々を輪廻の過程の中に縛り付ける。この猿の様に、食べ物を放棄したくないが為に、完全に捕捉される。猿は食べ物を放棄しさえすれば、手は穴から抜けるのであるが、貪愛の現起により、それが出来ない。我々は猿を笑えない。我々もまた同じであるが故に。