[断滅論者は「自我」と「無我」を
否定する]~
無我論者は、一切の事物を否定するが、
その中で、耆多翅舎欽婆羅の観点は、
いわゆる「断滅論」である。
この種の観点は、他人のいかなる見方も
受け付けず、「自我」と「無我」の両方を
否定する。
彼らは、苦痛から抜け出すところの、
いわゆる涅槃というものを認めず、ゆえに、
涅槃が究極的に「自我」であるのか「無我」
であるのかには、関心がない。
富蘭那迦葉の観点は、彼とおおむね一致して
おり、しかし、貪欲の対象はあることを
認めていて(これは二次的な観点である)、
たとえば、目で見ることのできるモノだけが、
存在している、と言う。
概して、これらの人々は、一つ一つのモノ
には、本質(=実質)はなく、ただ蜃気楼の
ような幻相だけがあり、これらもまた究極的
には消失するのだ、と言う。
総じて、我々は、「自我」を主張するのは、
永恒の人であることを発見する。
(+彼らは)一種の永恒なる霊魂
(sassatadiṭṭhi 常見)の存在を認めている、
すなわち、彼らは、一つの、永恒に存在する
個体(=個人)が存在しているのだと
考えている。
我々はまた、あの「自我」など完全に
全くもって、ないのだと主張する人々は、
一種の「断滅見」であり、我々が前に
説明したモノは、皆存在しないのだ、
言い換えれば、存在するものは何もない
のだ、と言う。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>