Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-23

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

これは、念住と智慧を密集させ、応用する事によって証得する事のできたレベル(+の体験)であり、この段階では、智慧によってサマーディを育成する。

また、心が全面的に、一つひとつの側面に関して、徹底的に知り得るまで観察する時、心はサマーディの極致に到達する。

それは、言い表す事のできない程の、勇猛さと精緻さでもって集中し、この殊勝な覚知は、物事の徹底的な、余す所のない程の分析を通して、また、そこから退出する事を通して、得るものである。

通常、心がサマーディの力に依存して、安寧で静かである所の、定の状態に凝集する時、それは静かに停止する。

しかし、あのサマーディの境地は、智慧の力で証得したものほど、微細で高く深くは、ない。

ひとたび念住と智慧が、身体を張って、煩悩に戦闘を挑んで、勝利を得たならば、その一回ごとに証得した所の、安寧と静けさの性質は、特に人を引き付けるものである。

これは、禅の修行者が、疼痛感をば、主要な焦点として、五蘊の実相に参じていく道である。

この修行は、我々の禅に修行において、無畏なる入門的な基礎を建立する。

私は、心の、知るという根本的特性が、永遠に消滅しない事を、明確に、はっきりと見ることができた。

世にある一切のものが、徹底的に壊滅しても、心は依然として、影響を受けないままである。

心の能知(=知る者)としての核心は、独自に存在しており、他のなんらの物事と関連しない事、私はこの一点を、全面的に、明晰明確に、悟ることができた。

この時、能知だけが、突出して顕現し、その光り輝く荘厳さは、人をして、尊敬、畏怖させる。

心は、色、受、想、行と識を放棄して、独自に一つの純潔な定の境地に入るが、それは五蘊とは、まったくもって決然として、関係を持たない。

その時、五蘊は心に対して、完全になんらの行動も起さない。

言い換えれば、心と蘊は、各自それぞれに独立して存在しており、修行者が、持続的に禅の修行をしてきた力によって、それらの間の関係性は、徹底的に切断されるのである。

我々の、以前の体験・経歴と、この証悟によって齎された驚異と神妙は、根本的に、比較して描写する事ができない。

心は、この安寧で静かな定の境地の中に、非常に長い時間留まった後、通常の意識に退出し、戻って来る。

退出した後、それは以前と同じように、再び五蘊と関連するが、しかし、直前に、徹底的に、五蘊と断絶した所の、特殊な定の境地を証得した事に対して、私は、絶対的な自信を擁しており、それは、己自身が先ほど、ひとつの非常に殊勝な心霊状態の存在を、体験したばかりであることを、知っているのである。

この体験によって、決して動揺する事のない信念が、深々と、私の心中に根付いた為に、事実的根拠に基づかない、または不合理なすべての観点に対して、この信念が、疑惑を生じせしめることはない。

私は誠心誠意、直前のサマーディに戻って、禅の修行をしたーー今回は更に堅固に、また一種の浸透していくような感覚を持って。

これは己自身の心中における堅信が、磁鉄の如く凝集したためである。

心は、非常に快速に、以前そうであったように、サマーディの安寧、静けさ、定の境地に集中して入って行った。

勿論、私はいまだ、心を完全には、五蘊の浸透から解脱させる事はできていないが、しかし、私は巨大な鼓舞を感じ、勇猛に精進して、更に高度なレベルの法を、証得したいと思ったのである。

(1-24につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>