Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐44)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

観(一時に一つの所縁)

この点に関して我々は、仏陀が、四念処の随観において用いた言葉を、研究してみたいと思う。

なぜ、彼は ”身” ”受” ”心” ”法” を二度、繰り返したのか?

例えば ”身随観身において”

(kāye kāyānupasssī)など。

これは、照見する所の、具体的な対象を区別して、これらが混同されない様にしたのである。

身随観身で言えば、これは色身であり、色法であり、かつ名身を含まないことを意味する。

《大念処経》の義註では、以下の様に解説する:

” 身随観受によらず

(na kāye vedanānupassī)、

または随観心によらず、法によらず(cittadhammānupassī)、

しかし、身随観身(=身に随して身を観ずる)なのである

(kāye kāyānupassī yeva)。”

同様に、受随観身とは言わず、受随観心、また受随観法とも言わない;

これは何を意味しているのか?

例えば、”痛い” という事を例に取ると、通俗的な言い方では、我々は ”私の膝が痛い” と言う。

しかし、法に基づけば、”膝が痛い” とは何の事であるのか?

それは苦受(dukkhavedanā)であり、この場合は特に、身苦(kāyikadukkha)を指している事になる。

(3-45につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>