Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」1-22

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1-3 37道品

人は、過去を追憶してはならないし、未来を妄想してもならない。

過去は・・・すでに過ぎ去っており、未来は・・・未だ来ていない。

今ここにおいて生起した所の、一つひとつの念頭(=想い)を観照し、はっきりと明晰にそれを知り、かつ、歓迎もしないし、拒否もしない。

今日、このような努力をなせ。

明日、死がやって来ないなどと、誰が知る事ができようか?(中部ニカーヤ)

37道品とは何か?

37道品とは、37種類の、悟道を支援する事のできる項目である。

37種類の項目は、修行者をして、最終的に四聖諦を体験・証悟せしめる。その始めは四念処であーー四念処は、37道品の中の、最初の四つの要点であるーーそして、最後にあるのは八聖道である。

1-3-1 四念処

四念処とは、四種類の所縁に念住する(=意識を集中する)修行の方法、または基礎的な修法である、と言える。

上記は、現代における、禅の修行の系統において、最も普遍的な、修法の一種である。

仏陀は以下の言葉によって、そのことを描写している:

比丘たちよ。

凡夫を清浄に至らしめ、憂い、愁い、悲しみを克服し、苦しみや悲痛を取り除き、正当な行為の準則となる道、涅槃を体験・証悟するための道、その唯一の道は、四念処である。(長部ニカーヤ、四念処経)

念住の四つの所縁または、基礎は:身、受、心と法である。

(1‐23につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~白菊会

昨日は、某大学医学部白菊会(献体関連の、大学の外郭団体)の合同慰霊祭があり、お招きがあったので、行ってきました。

私は献体登録をして、もう30年くらいになります。

20年前に、子宮がんを手術した時は「もう献体できないのか?」と思いましたが、その後、規約が改正されて、いくつかの感染症患者と両眼網膜献体者以外は、献体できるようになったようです(ホッ)。

死後、献体すると、その2、3年後に、医者の卵さんたちの解剖の練習台になり、その後火葬、合同のお葬式と、大学側が責任をもってやってくれます。

今回会場で配られた会報を読むと、大学には「合同納骨堂」もあって、家族が遺骨を引き取らない場合、ここへ納めてもOKだそうです(この件を知らないでいて、息子には散骨をお願いしてしまいました)。

南伝の仏教徒は、輪廻を信じています・・・というか、本来は「知っている」のが良いのですが・・・「信じる」と「知っている」では、その精神性は、雲泥の差でしょう・・・で、「輪廻を知っている人」は、お墓は無意味だ、ということも知っています。

20年前、私が緬甸のパオ森林寺院の本山にいた時、寺院で亡くなった老比丘がいて、お寺の台所の横の空き地で火葬(積み上げた薪の上に遺体を乗せて焼くだけ)して、遺骨は、その脇にある溝に放り込んで葬儀終了、という光景を見たことがありますが、輪廻するのですから、残された遺骨は、ただの残り物・・・クール?・・・シュール?でしたねぇ。

日本では、遺骨を恣意的に捨てる事は、法律が許しませんからお墓が必要で、または散骨するか、あまり選択肢はありませんが・・・、

私は「大学の合同納骨堂にいれて」と息子に遺言しておく事にします。

もし、南伝の森林寺院にいて、座禅・瞑想しながら死ねたら、それもまた結構ですが、日本で死ぬなら献体して、合同納骨堂に入れてもらって、メデタシ、メデタシです。

(南伝・テラワーダ仏教では、出家、在家にかかわらず、座禅・瞑想中に亡くなると、非常に喜ばれます。輪廻の先が、絶対悪い所である訳がない、という事で・・・お寺で死なれて困るワ、なんて事は誰も思いませんので、とても安楽です)。

「身念処」1-21

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

仏陀が、悟道した当夜経験したのは、四聖諦の三つの智階(彼が経験したのは、4*3=12階)である。

彼は、三つの智階(諦智、作智、証智)を理解・了解したけれども、一つの智階毎に、四つの聖諦を掛ける(+のが正しい)。

修行者が、仏陀と同じように、苦を滅したいと思うならば、最初に、第一番目の智階(諦智)を理解しなければならない。

その後に、修法を理解し、修法(作智)を、順守しなければならない。

この二種類の智慧は、一つに組み合わされる。

すなわちそれは、我々が実践しなければならない修行である。

もし、あなたが第一番目の智階(諦智)を理解して、次に、第二番目の智階(作智)を修し、その上に四つの聖諦を掛けるならば、4*2=8 を得られるが、これがすなわち、あなたが修行している所の、ヴィッパサナ修法である。

もし、あなたが結果(証智)を理解するならば、4*3=12になる。

すなわち、修行者は、すでに出世間法を成就したのだ、と言える。

仏陀が悟道後、久しからずに行った説法(「初転法輪経」)の中において、彼は、以下のような言葉でもって、三つの智階について述べている:

比丘たちよ!

私はこの四聖諦において、斯くの如くに、三転して12行相となした。

斯くの如くに如実智見が、いまだ完全に清浄ではないならば、

比丘たちよ!

私は、天、魔、梵天世界、沙門、バラモン、人、天衆世界において、等覚無上等正覚と称する事はない。

比丘たちよ!

私はこの四聖諦において、斯くの如くに、三転して12行相となした。

斯くの如くに如実智見が、完全に清浄であるが故に。

比丘たちよ!

私は、天、魔、梵天世界、沙門、バラモン、人、天衆世界において、等覚無上等正覚と称する。

私に智が生じ、私の心が解脱して、不動であるのを見た。

これは私の最後の生であり、更に後有を受けないものである。

(南伝律蔵大品第一大犍度)

(1-22につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

「身念処」1-20

     <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

1-2 智階

仏陀は、三つの段階を経て、四聖諦を体験・証悟した。

彼を教え導く人がいなかった為、彼は、己自身に頼って、この三つの智階を、体得した。

1.諦智

第一番目の智階であって、諦智と言う。

彼は以下の事柄を体得した:

1)苦諦には11種類の形式がある:

五蘊の)生、

五蘊の)老、

五蘊の)死、悲しみ、憂い、

(肉体的な)痛み、

苦悩(心霊的、精神的な苦)、

失望、

愛別離(=愛する者との別離)、

怨憎会(=憎む者との遭遇)、

求不得(=求めたものが得られない)。

いわゆる苦とは、すべて、五蘊への執着が原因である。

2)苦の因(集諦):

欲貪、色貪、無色貪(1.4.5節「四聖諦」参照の事)。

3)苦の滅(滅諦):

涅槃は苦の因(集諦)と果(苦諦)を止息(=止む事)せしめる法であり、因が滅すと、果もまた滅する。

4)苦の滅の道(道諦):

八聖道は中道であり、唯一、苦を滅する事のできる修法である。

2.作智

これは、第一番目の智階を基礎とする実修である。

苦は必ずや、修行によって認知・認識されなければならない。

集(苦の因)は必ずや、修行によって断じ除かなければならない。

滅(涅槃)は必ずや、修行によって証得しなければならない。

道(八聖道)は必ずや、修行によって発展、推進されなければならない。

3、証智

証智とは、成果の事、または修行した内容と四聖諦との関係を認知・認識する所の智見である。

この三智(諦智、作智、証智)は、「三つの層が相関する所の智見と内観」と見做されるーー四聖諦と関連する、三種類の、直観的智見である。

(1-21につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-116

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

喜が消失:

この二種類の意味を理解する必要がある;

すなわち

(一)尋と伺が止息した;

(二)尋と伺が止息し、喜も超越した。

当然、第二禅の中において、尋と伺は、止息される。

しかしながら、このように言うのは、(+修行者を)第三禅の道へと導く為であり、また、それを[育成]する事を勧める為でもある。

「尋と伺を止息する」と言うと、それは、尋と伺を止息させて後に、このジャーナの道に[入る]必要性があるのだ、という事を示している。

また以下の事実を、記憶しておいてもらいたい:

「第三禅の近行定は、尋伺と相応するだけでなく、喜とも相応する。ただ第三禅の安止のみが、この三支を捨離する。」

上記のことが原因で、上述のように、解説する事が必須であった。

比丘は捨において安住する:

捨とは、如実に、禅の修行の目標を観察する事である。たとえば、安般似相等。

このように、それは捨(upekkhāまたは傍観)である。

その意味は、先入観なしに、それを公平に見る事。第三禅を証得した者は、「捨において安住する」と呼ばれる。というのも、彼は清らかで明晰、十分で、良好な捨を、擁しているからである。

(5-117につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-115

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

8-10 第三禅

このようにジャーナを証得したならば、あなたは、第二禅の五自在を、練習しなければならない。

あなたが、第二禅の五自在に習熟して、次に、第三禅の修行に進みたいと思うならば、あなたは、第二禅の欠点を、思惟しなければならない:

「第二禅は、尋と伺に接近するという危険性がある。その中の喜における心の動揺は、粗くて劣っている。そして、喜禅支の粗くて劣っている様は、それを弱くする。第三禅は、比較的寂静である。」と。

かくの如くに、第二禅への執着を取り除き、また、第三禅を証得する為に、あなたは、再度、心を似相に専注させ、再度、第二禅に証入する。

第二禅から出てきた後、あなたは正念と正知をもって禅支を観察し、喜が、粗くて劣っている事、楽と一境性が、寂静であることを知る。

粗くて劣っている禅支を取り除いて、寂静なる禅支を得るために、あなたは再度、不断に安般似相に専注する。

もし、あなたが、持続的に、このように実践するならば、強くて力のある安止が生起し、あなたは楽と一境性を具備する、第三禅に到達する事ができる。

諸々の経における、第三禅を証得した場合の、標準的描写は、以下の通りである:

「喜もまた消えてなくなり、その後、比丘は捨、正念と正知に安住し、彼の身体は快楽(=楽しさ、心地よさ)を感受する。こうして、彼は聖者が言う所の『捨と正念のある者には、快楽のある安住がある。』なる第三禅に進入し、安住する。

(5-116につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-114

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

両支の捨離:

両支の捨離とは、尋と伺の捨離である事を、知っておかねばならない。

五蓋は、初禅の近行定において、すでに捨離されてはいるが、このジャーナ(第二禅)に関して言えば、尋と伺は、その近行定において、捨離されてはいない。

唯一、真正なる安止の時にのみ、当該のジャーナは、それらを伴わないままに、生起する。

故にそれらを「捨離支」と呼ぶ。

三支の具備:

それが具備する三支とは、喜・楽と一境性であって、具備するとは、この三者の生起の事であることを知っておかねばならない。

故に、《分別論》がジャーナを「信、喜、楽、一境性」であると言う時、これは隠喩的な言い方であって、当該のジャーナと、その構成要素を示しているのだ、と言うことである。

しかしながら、このジャーナには、信以外に、照明の相(=明るく照らす相)、または目標を徹底的に見る事のできる、三個の禅支が具備されている。

故に:

「その時、ジャーナに具備されるのは、どの三支か?それは喜・楽・一境性である」(《分別論》)と、いわれるのである。

(5-115につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>