Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵日記>整えられし心

最近、近所の主婦の方、2名から相談がありました。

お一方は今年70歳。

先日、直腸がんで手術したけれども、テレビを見ていると、癌は5年後に再発すると言っていたので、とても心配、とても怖い、もっと生きたいのに・・・と言って目に涙をためておられました。

もうお一方は60歳。

ご主人と上手くいっていなくて離婚したいが、できない。頼りの娘たちも自分の元から去ってしまい、どういう風に生きたらいいか分からない、という方。

私がまだ若かった頃、仏典を読んでいると「この世で一番大事なのは人の整えられし心」「それ以外には、何もない」という言葉がありました。

当時、私はこの言葉について、どういう事なのか余りピンときませんでした。

「私は毎日一生懸命生きているよ」「他人に意地悪もしていないよ」「自分の働きで食べていて、盗みもしていないよ」これ以上、心を整えるって、どうするの?と思いました。

しかし、35年間、座禅・瞑想してみて、仏陀の言う所の<心を整える>というのは、日常(世俗)レベルの善意に満ちた生活態度を指して言っているのではない、ということに気が付きました。

我々の心を(座禅・瞑想で)訓練~思いの手放し~して整えなければ、それは<野放しの猿>。

平穏無事な時はともかくもそれで凌げても、一旦急ある時(死に至る病にかかる、夫が浮気する、子供が犯罪を犯したなど)には、問題を解決するための有効な智慧をもたない、幼稚で愚かな<猿>なのです。

日本は朝鮮戦争の特需によって、敗戦の荒廃から立ち直る事ができました。

その頃から、<大事なのは経済(金)であって心ではない>という考えが広がり、<宗教なんかやってるヤツはイカレポンチで、金にもならない無意味な学問にハマッてるのさ>といって馬鹿にしてきました(それで逆に、人生を深く考えようとした若者がオ〇ムに取り込まれてしまいました~宗教に未熟な社会が、未熟な教団の存在を許し、熱意と善意はあるけれど、宗教的に未熟な若者が偏狭で邪悪なグルを信じて、加害者にもなり被害者にもなった、という訳です)。

<猿>の心は、無明=無知からできています。

自分はなぜ生まれてきたのか?どんな人生を生きれば満足か?死ぬ時には笑って死ねるか?(メメントモリ)。

それらの事を自問しないまま、今日お金に困らず、とりあえず楽しければそれでよい。夫となぜ仲良くできないのか?仲良くないのに、なぜ離婚できない、ないしは離婚しないのか?問いと答えが同じ所でぐるぐる回っているだけで、前へ進めない。

もし、仏陀のいう<整えられし心>があったなら、安心立命を得て、泰然自若としていられるはず・・・、とかく言う私も、実は、病気をすればオタオタし、家族に問題があればオロオロし・・・まだまだ泰然自若とは言い難いのですが、<整えられし心>だけが、自分を落ち着かせ、自分をよき所へ連れて行ってくれる事だけは、分かっています。

35年間、たゆまず座禅・瞑想してきて、本当に良かったな、と思うのです。

追補:私が嫌いな言葉~<宗教にはしる>。

宗教は本来、科学と哲学と心理学を合わせたような学問乃至は教えだと思います。<とにかく何でもいいから信じなさい>とのたまう宗教はあってもいいけれど~信教の自由という意味で~宗教以前として要注意。

「仏教は宗教ではなくて、科学だ」という主張もありますが(テラワーダ系に多い)、科学のようには数値・データで明示できない部分もあり、人の直感、センス、心の内部体験に属する部分も多く含むので、純粋な科学とは言い難いと、私は思います。インド人のゴエンカさんは仏陀の教えを人生を生き抜く技術、台湾の浄空和尚は、哲学でも学問でもなく、教育だと言っています。