2014-06-24 是誰庵仏教談義>ありのまま考 仏教 先日のブログで、小保方問題から「<ありのままでいい>という考 え方は、<行き過ぎた本覚思想>であって、仏陀の教えた仏教とは 何の関係もない」と書きました(「ものごとの捉え方」参照)。 もう少し詳しく述べてみます。 社会には色々な問題があります。人間が二人以上寄り集まれば、一方が 一方の言動に「??」と思うのは、人に自我と個性がある以上、当然の 事でしょう。それが、地球上では、現在60億人が暮らしており、かつ 現代は、全地球的に資本主義が行われているから、利益追求優先から来る ユガミもまた半端ない事でしょう。 それで特に経済的弱者、身体的弱者、情報弱者、学歴弱者等々、社会の 底辺で辛く、悲しい思いで暮らしている人が多くいる(実際、<一生 涯わが世の春>なんて人は、60億分の何人いるでしょうか?)。 2500年前のインドでも、同じ状況があって、それをみて、今のイン ドとネパールの国境にあった小国の王子であったシッダールタが大変に 心を痛め、息子が生まれたのを機会に王宮を脱けだし(王国の継承者が 生まれたので、自分の義務は果たした故)、苦行の末(苦行は役に立た ないと判断した後、瞑想に入り)、社会的強者も弱者も、ともに過剰な、 ゆがんだ欲望に流されて生きる事が人間悲劇の始まりだと看破して、 悟った後は王宮に戻らず、出家者として、人間悲劇からの脱出方法を 人々に説き続けたのである。 その教えの内容は、四聖諦、八正道、12縁起、37菩提分として、 現代にも語り継がれている。しかし、日本では、僧侶自身が在家の5戒 さえも守っていない事から、八正道や37菩提分を説く人は、ほぼ いないといってもよいし、その為、仏教の教えの本質がなかなか 伝わってこない。 仏教の修行で「あるがままをみよ」というのがある。それは、たとえば 誰かに自分の悪口を言われた時、ある人は怒りで顔が赤くなり、ある人 は全身が熱くなり、ある人は背筋がゾクゾクし、ある人は怒りで昏倒す る、としよう。 そういう時、大事なのは、相手の非を正そうと論争する事ではなくて、 自分の身心の反応を、よくよく観察する事なのである。 人から悪口を言われた時、観察するのは、相手ではなくて、自分の心の 反応の<癖>。しかし、心で心を観察するのは大変難しいので、身体の 反応を観察する。そうすると嫌な事柄(悪口以外でも色々ありますよね) に出会った時、顔が赤くなったり、身体が熱くなったりするのは、 自分の心の反応の<癖>、自分(心)が自分で長年染まりつづけて きた<嗜好性><嗜向性>を帯びている事が観察される。 この観察が上手くいくと、他人に悪口を言われた時の自分の身心の 反応に習慣性のある事に気が付き、それに気付く事によって、 その反応から徐々に自由になる事が出来る(この自由は、誰にも奪 われる事はない)。 世の中に自分を誉めてくれる人と、自分をけなす人は半々だと 思っていればいいし、他人の悪い性格を、被害者である当の本人 が直してあげようなどと思う必要はない(自分に力量があって、 上手に慈悲を持って、注意喚起してあげられるのであればよいが)。 他人に悪口を言われた時、自分の身体に起こる反応をただ ひたすら「あるがまま」に観察するのである。 仏教でいう<あるがままに>は、<自己の身心上に起こる反応を、 思考・概念・妄想でごまかさずに、あるがままに観察せよ> と言う意味である(だいたいが、他人をあるがままに観察する、 なんてできないでしょ?観察の対象は<自分>です)。 世の中に、殺人や強盗、強姦や嘘やいじめが蔓延しているのを、 涼しい顔で<あるがままでよい>などと言うのは、まさにシッダールタ (仏陀)が命がけで批判した思想ではなかったか? 「仏教が、2500年前に仏陀が批判したバラモン教に戻ってしまった」 と嘆くのは、この事である。 追補:分かりやすいので<人に悪口を言われた時>を前提に説明しま したが、これを<己の意に染まない、不愉快な事象に出会った時>と すればいつでも応用が効きます。実は我々は<意に染まない時>だけで はなくて<意に染むとき>も異常に身心が反応しています。 この身心の反応を<あるがままに観察すること>が、問題解決の重要な 第一歩なのです。 仏教でいう<ありのままの観察>と、社会(他人)の悪行を許すかどうか とは次元の異なる問題であり、<ありのまま>という便利な言葉を 利用して、自他の非を<ごった煮状態>にしては、いけない。