パオ・セヤドー問答集~#235,236>問答(15)問15-26,15-27<定学疑問編>
☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。
#236-150924
問15-26 禅の修行中、有分心に落ちるとはどういう事をいいますか?
答15-26 禅の修行者が近行定(upacāra-samādhi)の段階に到達していながら、しかし、いまだ定力を維持できない、そういう時には、有分心(bhāvanga)に落ちた事に、特に気が付き易いです。その時、あなたは心の中が一片の空白又は一時の時間、心が何も知らない状況になったような感じを持ちます。それは、その時間の間、心路過程が生起しておらず、ただ有分心だけが継続して不断に生滅しているからです。有分心は、二つの心路過程の間で、多数回生起しますが、それは前世の臨死速行心の目標を目標として、縁にとっています。それは過去の目標であり、現在の目標ではありません。あなたの修行が、縁起法のレベルにまで到達していない限り、あなたは、過去の目標を察知する事はできません。目標を察知できないという事から、修行者は(その時間の間)何も知らない、という感じを持ちます。この種の現象を有分心に落ちると言い、それは、心が念を起こさないという事でもなく、涅槃でもありません。
仏陀の指導した《アビダンマ蔵》によると、一つの心路過程の後に、通常は常に有分心が生起します。仏陀の心路過程の間には二つの有分心が生起します;シャーリプトラ尊者の心路過程の間には16個の有分心が生起します;その他の人の心路過程の間には、数えきれないほどの有分心が生起します。人が常にこのようにたくさんの有分心が生滅しているとしても、我々は通常、それらを察知する事ができません。ただ、心が比較的静かで専注している時のみ、特に近行定の段階において、有分心が継続して生起している現象、またはいわゆる有分心に落ちると言われている現象を、はっきりと察知する事ができます。
あなたが有分心に落ちるといわれる状況を体験する時、嬉しがる必要も、がっかりする必要もありません。というのも、これは禅の修行中に起きる一種の自然現象に過ぎないからです。あなたがしなければならない事は、引き続き、心をして瞑想の目標に保持する事です。あなたが安止定の段階に来たとき、あなたの禅支は長時間定力を維持できるほど強くなりますから、途中で有分心に落ちるという事はなくなります。
#236-150924
問15-27 睡眠中と、定に入っている状況では、どう異なりますか?
答15-27 人が熟睡して夢を見ない時、彼の有分心(生命相続流)は、継続して不断に生滅します。人類に付いて言えば、有分心刹那の中の名法は欲界名法です。人が夢を見ている時は、微弱な欲界意門心路過程が作用しています。定に入っている時は状況が異なり、定では、色界または無色界の名法が不断に生起しています。定における、色・無色界名法は、夢における欲界名法より更に高尚で勝っています。
定の中における心は、ジャーナの目標を深く認識する事ができます。有分心は前世臨死速行心の目標を目標としていますから、定の心のようには、深く目標を認識する事ができません。夢の中における微弱な欲界意門心路過程は、緩やかに欲界の目標を(縁に)取ります。これが二者の間の違いです。(完)
(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)
初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。