南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(89ー1/2/3)(私家版)

■行縁識(行の縁によりて識あり)……………               行とは、前に述べた非福行、福行、不動行である。それには語行、身行、意行を含む。不動行は純粋に意行(意業)であり、無色善心である。非福行は、三不善語行、身行と意行で、福行は、善の身口意の行為である。。。。。。。。。。              行は如何にして識の縁になるのか?      この識は、果報識の意味である。        果報識は、2個ある:結生識と生命の期間中に生起する所の識であるーー例えば、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、領受心、推度心等など。。。                結生識は、19種ある。欲界においては、10個の結生識があるーー一個は、不善果報推度心、一個は、善果報推度心に8個の欲界果報心を加えたもの。色界には5個の結生心、無色界には4個の結生心がある。故に、合計19個の結生識となる。。。   行の縁によりて識が生起する。。。     行は如何にして識の縁になるのか?    《清浄道論》では、非常にはっきりと解説しているが、しかし《アビダンマ論》の基礎がないならば、《清浄道論》の慧品は理解出来ないのである。というのも、それは《アビダンマ論》を濃縮したものであるが故に。。。                  行は如何にして識の縁になるのか?人が臨終を迎える時、ある種の目標が、彼の最後の一個の心路過程に顕現する。この目標は、業、業相、趣相の内の一種である。。       これらの相が、臨終者の心路過程の中において顕現する。というのも、過去の業がその時点で熟する為に結果、その果報が生じ、その果として相が顕現するのである。今、我々は、臨終者に生起する所の眼門心路過程について説明する。例えば、彼が花の色彩を見たとする。ただ花の色彩だけで、花全体ではなかった。もし、彼が花全体を見たのならば、それは意門心路過程が生起したのである。眼門であれば、色彩しか見えない。有分心が生滅した後、5門転向、眼識、領受、推度、確定、5個の速行心が起きるが皆、花の色彩を所縁に取る。次に非常に多くの有分心が死亡識に至るまで続き、その後に、間をおかずに結生識が生起する。こうして新しい生命が始まる。結生識は果報心であり、過去の業によって生じた果報(例えば、過去世において花を仏像に供えた善業により生じた果報)である。故に、結生識は、花の色彩を所縁に取る。結生識は欲界地で生起するが、これは八大果報心の一である。ある時は智と相応し、ある時は智と相応しない。この結生識は、行の縁によりて識あり、の識であって、行とは即ち、業である。というのも、業は臨終の時に熟し、その結果、未来世において識を生じるのである。この識は結生識そのものである。