一、四つの煩悩
- 我見――仏を学ぶ前に、まず修養を学ぶ
我々は、自分が見たものが正しいと思い、かつ自分が見たものに執着し、他人を排斥し、他人を攻撃する。一たび自己の見解が確立すると、それがいくら間違ったものであったとしても、絶対に手放そうとはせず、死守するのである。このような間違った見解は人の内部に長く温存され、それでもって自己を保護しようとする。まさに、人は、<人生とは縁によって生じ、縁によって滅する>という道理を理解しないが故に、自己の見解が絶対に正しく、超越しており、永久なのだと錯覚するのである。
夫婦はなぜ喧嘩するのか?見解が異なるがために。兄弟はなぜ喧嘩するのか?見解が異なるがために。上司と部下はなぜ争うのか?見解が異なるがために。強烈な我見(私の見解)の為に、彼我の間に本来不必要な確執が多く起こる――これが我々の煩悩の根なのだ。
故に、私は皆さんに、いまはまずは<仏に学び解脱を求める>などという事は横において、先に実践しなければならない任務、それは修養である、と言いたいのである。
(台湾高雄文殊講堂 慧律法師著
翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)