パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-124
次に、我々は、下記のように省察して、不断に、忍辱を
育成しなければならない:
「もしも、平静と安寧を齎す忍辱を、しっかりと握りしめて
おかないならば、衆生は、自分自身を傷つける悪業を追い求め
ることになり、その後果は、彼らが今生で、また来世で、
苦を受けなければならないことになるのだ。」
「私は実際に、他人からの虐めに遭っており、また苦しみを
受けているが、根本的な原因は私自身にある。というのも、
苦は私の身体を田として、他人の行為を種としているからである。」
「私の忍辱は、苦の債務を返済する方法である。」
「誰も悪事を働かないならば、私はどのようにして、忍辱波羅蜜
を修するのか?」
「この人は、今、私をいじめているけれども、過去においては私を
恵み、利益してくれたことがある。」
「彼の悪行は、私が忍辱を修習する因であり、故にそれは、
私にとって、有益である。」
「衆生は、私が自ら生んだ子供達のようであり、智者は、
間違いを起こした自分の子どもに、腹を立てるだろうか?」
「彼が、私を侮辱し虐めるのは、憤怒の魔に制御されている
からであり、私は、この悪魔を退治するのを、手伝って
あげたい。」
「私もまた、この苦痛を齎す、悪行の原因の一つである。」
「名色法が悪をなしている、名色法が侮辱されている、
この二組の名色法は、この瞬間に消滅する;それならば、
誰が誰に怒っているのか?(+それが分かれば)瞋恚と
怨恨の心は、生じるはずがない。」
「究竟法は皆、無我(=主宰者はいない事)である。
悪をなす者はいないし、虐められる者もいない。」
もしも、長きに亘る習気のために、虐めによって生起した
怒りの気持ちが、継続してその人をコントロールするならば、
菩薩道を修すると発心した者は、以下のように省察し
なければならない。
「忍辱は、徳を持って、怨恨に報える因である。」
「私に苦痛を齎す屈辱と虐めは、私に信心を惹起させる要素
である。というのも、それは信心の親依止縁であり、
世間の苦しみと不円満を感受する要素である。」
「目などの五根は、各種の、異なる目標・・・良いもの悪い
ものを含め・・・に出会うのは自然なことである。喜ばしい
事柄にだけ、出会おうとする事は、不可能である。」
「瞋恚と怨恨の命令に従って、彼は已に、憤怒によって
精神が狂乱している。このような人間に報復して、
何の意味があるだろうか?」
思っている。故に、菩薩道を修する私は、彼らが原因で
失望したり、怒ったりしてはいけない。」
「もし、私を虐待する人が、聖潔なる戒行などの美徳を
具備する人であるならば、私はこのように省察しなければ
ならない:
『私は徳行の有る人に怒ってはならない』と。」
「もし、私を虐待する人が、聖潔なる戒行などの美徳を
具備しない人であるならば、私はこのように省察しなければ
ならない:
『私はあなたに、大悲心で対応しよう』と。」
(+ )(= )訳者。(つづく)
訳者コメント:下線は訳者が引きました。これって、
ラマナ・マハルシ(非一元論者、アドヴァイタ)の
言っている事と同じ?ゴエンカ師はマハルシを高く
何が違って、何が同じなのか?
ちょっと混乱するこの頃です。
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)