「瞋恚と怨恨は、私の美徳と名誉を損なう。彼に対して怒る
ことは、私を醜悪にさせ、安眠できなくさせる事などが起こる。
そして、これらは、私の敵が希望する事柄であり、敵が、
嬉しく思う事柄である。」
「瞋恚の怨恨は、強敵であり、それは多くの危害を齎し、
すべての成就を破壊する。」
「忍辱を具備する人に、敵はない。」
「悪を為す者は、その悪行によって、未来において、苦痛に
遭遇する。私は、忍辱でもって忍耐すれば、彼のような苦痛に
会う事はない。」
「もし、私が瞋恚と怨恨を、忍辱で克服したならば、私は、
怒りの炎の奴隷となった敵に、打ち勝つことができる。」
「私は、瞋恚と怨恨で、忍辱という、この聖潔なる美徳を、
放棄するわけにはいかない。」
「戒行等の聖潔なる美徳を具備する私が、美徳を排斥する汚れで
ある怒りにまかせて、怒り狂うことなど、どうしてできようか?
その上、これらの美徳が欠けたならば、私は、またどうして、
衆生を支援し、仏果を証悟することができようか?」
「忍辱を具備してのみ、外部からの干渉を避ける事が出来、
そうして初めて、心に定が生じる。定力のあるときだけ、諸行または
有為法が無常であり、苦であり、諸法は無我であり、涅槃は無為法で
あり、不死、寂静、至上であり、仏の資質は、不可思議であり、
かつ無辺の力量を具備していることを、観ずることができる。」
彼は、観照を通して、忍に随順する(+心)を育成し、彼は以下の事
を理解する:
「彼らはただ、無我の自然現象である。彼らは、自分自身の因縁に
従って、生滅しているだけである。どこから来たのでもなく、
どこへ行くわけでもない。
彼らは、永遠に存在する個体ではなく、これらの現象を主宰する
主人もいない。」
このように如実知見した後、彼らには「私が造った」「私によって
造られた」という基盤がないことを、理解する。
このように省察した後、菩薩は動揺せず、また不退転にして、
目的地に向かえば、確実に、正等正覚を得る事ができる。
以上が、忍辱波羅蜜の省察である。
(+ )(+ )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)